*秘跡の光と影…
カトリック教会の秘跡は、洗礼、堅信、聖体、告解(赦しの秘跡)、結婚、叙階、終油(病者の塗油)の7つ。秘跡はキリストが制定したものと言われ、それに与ることによって人々は霊的な力を頂いてきたことは確かです。
中世の無学な民衆が、聖職者から「秘跡はキリストが制定したもの。神の命令だ」と言われたら、否定も反論も出来なかったでしょう。一応神学的には「見えないもの(恩恵)の見える徴(物体や行為)」が秘跡というものです。秘跡を授けるのは司教司祭で、受けるのは一般信徒です。然るべき人(司祭など)が然るべき言葉やしぐさで秘跡を行なうとそこに自動的に聖霊が働く、恩恵が付与されるとします。
このことを「客観主義」といいます。善人でもなく信仰の堅固でない人でも正当な手続きを経て司祭になった人が、然るべきやり方で行なうなら、そこに聖霊が働く、と信じる立場、それが客観主義です。つまり、秘跡は客観的な制度なのです。
本当にそこに聖霊が働くのか、恩寵が与えられるのかを問うことは、タブーです。否応なしに従うべき制度、強制力を伴う装置が秘跡でした。西欧キリスト教社会全体がヒエラルキー的、身分制的な社会だったので、従う以外になかったと言えます。
*秘跡の機能は各人に恩寵の付与だけでなく、社会を統制する機能に変質した
秘跡はどのような人々にも平等に恩寵を与えてきた、と言えますが、秘跡の機能はそれだけではありません。西欧中世・近世の封建的、またその後の絶対王政的な社会において、7つの秘跡は、国家や社会をカトリック教会が統制するという機能を果たしました。
7つの秘跡(洗礼、堅信、聖体、告解、婚姻、叙階、終油)を並べてみると分かると思いますが、それらは、人の誕生から死まで、人生の節目に行われる通過儀礼であり、また社会の中の役割や位置を固定するものです。秘跡という種々の儀式を通して社会はカトリック一色に統制されていくことになります。
*洗礼の秘跡は…
大人が自分の意思で受ける成人洗礼は、4世紀前半までで、その後、西欧世界においてキリスト教だけが合法的な宗教となり、他の宗教は許されなくなりますから、幼児洗礼は神やキリストを信じていようがいまいが、義務的に授けられました。
そして、のちのザビエルたちが言うように「後の世で救われるためには、必ずなくてはならない」もので、「もし受けてないなら地獄に落ちる」とされていました。ですから西欧キリスト教世界というと、一
見素晴らしいものに思えますが、実は自由な思考や判断・選択を許さない「強制」で縛られた社会でした。
*堅信の秘跡も…
堅信はそもそも独立したものではなく、洗礼と一つのものです。ご存じのようにプロテスタントの日本キリスト教団などでは秘跡は、洗礼と「主の晩餐」の二つのみです。幼児洗礼が当然の義務になったので、その後6,7歳なり12歳頃に堅信の秘跡が授けられることが掟になっていきました。自分たちが生きている社会はキリスト教社会であること、宗教はキリスト教しかないことを自覚させ、押し付けるものだったと言えます。
*聖体の秘跡も…
聖体の秘跡は、然るべき人(司教司祭)が然るべき仕方でパンとブドウ酒を聖変化させて信徒に授け、食させる、というもの。それを食べないと「永遠の命に与れない」とされました。聖体も少なくとも年に一度受けねばならない、となったのは、聖体を信じないカタリ派異端を見つけ出し、処罰するためでした。ですから「年に一度は拝領すべし」という掟のある社会では、いやでもミサに行かなければなりません。
また「イエスキリストは、聖体に関する権能と任務を、使徒たちとその後継者にお与えになった。その後継者とは司教と司祭である」とカトリック要理にあるように、位階制を教会法で規定することで、人を生かすも殺すも、永遠の命をいただけるかどうかは、聖職者の権限であることになりました。「教会の外に救いはない」のが第二バチカン公会議まで続いてきたのです。
ミサで奉納祈願のとき、「皆さん、共に捧げるこのいけにえを、全能の父である神が受け入れてくださるよう祈りましょう」との司祭の招きに答えて、会衆は「神の栄光と賛美のため、また私たちと全教会のために、あなたの手を通してお捧げするいけにえを神が受け入れてくださいますように」と言いますが、「あなたの手を通して」というのは司祭が「祭司」すなわち神と会衆の間に立って取り次ぐ役割をするというニュアンスをまだ持たせているように思います。
しかし、ミサは、司祭も信徒も全く同じ立場で神に向かい、キリストの命に与るものです。米田彰男師が言うように「共同体全体が祭司職を行使する」のが本来の立場です。この辺りの理解から変えていかないと、司祭中心のミサを変えることはできないでしょう。
元に戻しますと、聖体拝領は自主的に「恵み」として受けるものですから、聖体拝領を掟として年に一度とか強制すること自体、おかしなことです。また、かつての習慣で、ミサ前の数時間は飲食禁止とか、跪いて舌で聖体拝領することも、ご聖体の聖性を過度に強調し、聖職者と信徒を分けるものです。
また、洗礼を受けてない人、離婚者、再婚者、同棲している人、告解してない人、小さい子ども、教会の掟を守っていない人も聖体拝領できないというのは、教会統治のためには意味があったでしょうが、罪びとを招くために私は来たと言われるイエスの意図に反しているのではないでしょうか。またイエスが幼子を招いて祝福したことから考えますと、求める人にはもれなく聖体を与えることが、イエスの望みではないかと思います。
*告解、赦しの秘跡の本来は…
赦しの秘跡は、ヤコブの手紙5章16節やヨハネの第一の手紙1章9節といったところから始まったわけではありません。教会破門になるようなケース、教会分離・分裂をもたらすようなケースで、その罪人が「教会に戻りたい」というときに、再加入に際してでした。改悛していることを公の形で確認して再加入を赦したのです。
不貞、殺人、棄教を犯した人の再加入の際、法的な改悛の仕方がとられたり、また公的なスキャンダルの場合と「死の床」にある人や病人に罪を告白させ、赦しを与えるような形となります。それが、6世紀にアイルランドなどで、死の床、病人だけでなく、いろんな人がもっと小さな罪を改悛するといった習慣ができ、司祭によって何度も繰り返して償いのわざを課したうえで赦しを与えるようになりました。
西暦1000年ごろからカタリ派やワルド派が増え、異端審問制度ができ、それらを摘発・壊滅させるため、1215年、第四ラテラン公会議で、「すべての罪の告白をするべきである」、そして「自分に課された償いや苦行を果たすように」とし、「少なくとも年に一回、復活祭の頃、必ず聖体拝領をすべき」と、聖体拝領も告解も制度化されたのです。
「個々人の霊的健康のため」というよりも「キリスト教社会の統制の手段」となりました。1551年のトレント公会議で、「改悛の秘跡は、カトリック教会において、信徒が洗礼以後しばしば罪に陥った際、和解するために主キリストによって制定された真の適切な秘跡ではないと言うなら、その人にアナテマ(呪い)あれ」と規定されます。
初期の頃には霊的なものだった習慣が、法的な制度になって行った、と言えます。告解に限らず、中世においては、何につけても教会の掟を守らないと、「共同のパン焼き窯も共有林も使用できない、種蒔きの種ももらえない」ということになり、信徒たちの命に関わることでした。
*結婚の秘跡も
「結婚したら二人は一体であり、神が結び合わせたものを人は離してはならない」(マタイ福音書19章5、6節)とのイエスの言葉から「二人の結びつきは解消不能だ」とし、またパウロのエフェソの信徒への手紙5章25節から、「二人の一致はキリストと教会の一致を象徴するものである、それゆえに結婚は聖なるものだ」とされました。
特に12世紀のグレゴリウス改革によって結婚は秘跡とされ、男女は教会の管理・統治下に置かれることになります。結婚には司祭の祝福と教会による認可が必要となり、それがないと神の恵みはないことになります。
結婚は個人間の問題、両者の同意による契約ですが、そこに教会が関わることで結婚は「聖なる絆で男女が結ばれるもの」として離婚、再婚や人為的な避妊の禁止など教会法の規定とも相まって管理されてきました。結婚の秘跡は、共同体倫理と教会倫理に違反しないよう二人の行動を管理するものでした。
しかし世俗的市民社会と教会が分離していくと、男女関係のあり方(事実婚や同棲その他)、家族や出産する子供の意味、財産分割や遺産相続など多岐にわたる結婚内容は、教会の掟の枠内に留まることはできません。
以前、このコラムでも紹介した『教会への私の希望』(サンパウロ刊)の著者ベルンハルト・へーリンクは、結婚を「契約」ではなく、「命の絆、救いの秘跡」と捉えるよう、希望しています。
具体的には、実質的に破綻している夫婦関係を「不解消」としない、避妊等を夫婦の良心と聖霊に委ねる、などです。同時に教会の掟や教会法の規定を改定して、男女の現実に即したものにすることです。へーリンクが引用しているように夫婦は、「平和な生活を送るようにと、神はあなた方を召された」(コリントの信徒への手紙1・7章15節)のです。
なお先述した、マタイ福音書にあるイエスの言葉から「結婚は不解消」とされてきましたが、それに続く同じ章の11,12節で「誰もがこの言葉を受け入れるのではなく、恵まれた者だけである… これを受け入れることのできる人は受け入れなさい」とあります。この言葉をカトリック教会は軽視して、結婚不解消の面だけを強調してきたのではないでしょうか。
*叙階の秘跡も
『カテキズム要約』に「キリストは教会の位階を制定され、これに権威を与えた。聖職位階は聖職者すなわち司教、司祭、助祭によって形づくられ… 叙階の秘跡により… 神の民に仕えます」とあり、その直前には「使徒継承とは叙階の秘跡を通して、使徒たちの使命と権能が彼らの後継者である司教たちに伝えられること」とあります。
「司祭は奉仕者でなければならない」と第二バチカン公会議以後は強調されますが、今紹介したように「権威」「権能」という言葉は、聖職者は一般信徒の上位にあることを示しています。叙階の秘跡によって位階制の教会は、キリスト教を制度として社会に定着させ、西欧の身分制社会それ自体をも神的起源を有するものとして正当化する役割を担ったのだと言えます。
そもそも、いつから「司祭」は制度化されたのでしょうか。典礼史家のユングマンは『古代キリスト教典礼史』の中で「祭司」(ヒエレウス、サチェルドス)という異教の用語を、キリスト教の司教や司祭に用いることは長いこと避けられていたのに、ようやく2世紀の終わり頃になって「祭司」という語が使われるようになった、としています。
集会において「エウカリスチア」(パンとブドウ酒をキリストの御体・御血にする部分)を司式する人が一般信徒から分かれていって、特にコンスタンチヌス帝時代以降に、制度化されていった、と言えます。さらにまた「司祭は男性でなければならない」「一般信徒はミサの司式はできない」「司祭は独身である」などが法的に規定されていきました。
ヒエラルキー(位階制)に関することで付け加えておきますと、教皇や司教などの高位聖職者が持つ大きな権力は「破門」や「聖務停止」です。
破門されると、その者はキリスト教社会で地位も権利もはく奪され、疎外されて生きていけなくなりますし、ある都市の司教が聖務停止されると、その下にある司祭は洗礼もミサもできないので、子どもが生まれても洗礼も授けてもらえない、結婚式もあげてもらえない、葬儀も教会でできないことになり、市民生活に大きな支障が生じました。
ちなみに、洗礼、堅信、叙階の3つには秘跡的な「霊印」、消えることのない霊的な証印が与えられる、とされます。聖霊の働きの一部である霊印は見えないものです。男女の結婚の秘跡にはないが、司祭の叙階には霊印がある、と主張されることも位階的教会と社会の秩序維持のために必要なことではあったでしょうが、果たしてどれだけの信者が本気で信じてきたのでしょうか。
司祭と一般信徒との本質的な区別ができないとすれば、欧米や日本で司祭志願者が減少する傾向は続いていくだろうと思われます。
*終油(病者の塗油)の秘跡も