年の初めにあたって、改めて思いを馳せること—それは、平和です。いったいどうなってるんだろうか、と思うほど、世の中は、争い、不和、そして戦争に満ちています。それらが本来は良くないことだと分かっている(だろう)にもかかわらず、なぜ人間は、これほどまでに愚かなんだろうか、と思います。
平和はしかし、何も国や民族のレベルだけのことではありません。一人ひとりの人間関係においても、さらには一人ひとりの人間においても求められます。つまり、今自分の心は穏やかであるかどうか、ということです。もしそうでなければ、人との平和な関係を築くことはできないでしょう。この不確かな自分を、いい点も悪い点も含めて、とりあえず受け容れられるかどうか、ということです。自分が自分と対立し合っているかぎり、私たちは、決して平和を享受することはできません。
もし自分の中に平和を見出すことができたら、次は家族、学校や職場と少しずつ半径を大きくしていき、やがてそれは世界レベルにまで広がります。すべての人が、一つの中心を見定め、それを大切にしようとするなら、たとえ時間や労力がかかっても、平和の実現は不可能ではないでしょう。そのために、自分は、何を考え何を思い、そして何を行うかが、問われます。
「一人のみどりごが私たちのために生まれ」(イザヤ書9章5節)ました。その子の名は、「平和の君」。これが、イエスのもう一つの名前です。彼は、「私たちの弱さに同情できない方ではなく、罪は犯されなかったが、あらゆる点で同じように試練に遭われた」(ヘブライ人への手紙4章15節)と語られます。その彼が、復活の後、恐怖の中にある弟子たちに現われて、こう語ります—「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ福音書20章19、21、26節)。
かつて、マザー・テレサは、こう語りました—「沈黙の実りは祈り、祈りの実りは信仰、信仰の実りは愛、愛の実りは奉仕、奉仕の実りは平和」。真の平和は、一人ひとりが、自らに囁きかける神の言葉に耳を傾け、心を開き、静かにそれを聴くことから始まるのでしょう。
(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)