「大丈夫。—小児科医・細谷亮太のコトバ—」。今から10年ほど前に観た、ドキュメンタリー映画です。それに先立って制作された「風のかたち—小児がんと仲間たちの10年—」の続編にあたります。
細谷先生は、40年間小児科医として、とりわけ小児がんの子供たちを診てきました。今では約7~8割は治るそうですが、それでも先生は、現役で働かれていたとき、300人ほどの子供たちを見送ったといいます。「なぜ、この子がこの病気を背負って、自分ではないんだ…」と、いつも負い目のようなものを感じてきた、と言われます。映画の中では、そのような先生の気持ちが、ちりばめられるように、先生自身の俳句によって語られます。
**朝顔の花数死にし子らの数**
命に寄り添うとは
「大丈夫」—これは、(本人は気づいていなかったらしいのですが)先生の口癖らしく、診察する子供たち一人ひとりにかけられる言葉。先生の生き方を見ていると、「あぁ、命に寄り添うとは、こういうことなんだな」と思えてきます。同時にまた、その姿が、イエスの姿ともだぶってきます。イエスが、生前よく語っていた言葉—「心配しなくてもいい、恐れなくてもいい」。
命の輝きとはかなさ—それはいつも背中合わせかもしれません。とりわけ私たちは、そのことを病気のときに、また誰かの死に相対するときに体験します。いつこの世でこと切れてもおかしくないのに、それを認めたくない。これは極めて自然な人間の感情でしょう。
「人の日々は草のよう。/野の花のように咲くのみ。/風がそこを吹き抜ければ、消えうせ/生えていた場所も、もはやそれを知らない」(詩編103章15-16節)。
「人間はどうせ死んでしまうのに、なぜ生きているんですか」—これは、子供電話相談室での、一人の子の質問。いったいどれくらいの人が、この質問に答えることができるのでしょうか。
**死にし患児の髪洗ひをり冬銀河**
永遠の命を見つめるならば
私たちの命は、この世だけのもの。これは一つの考え方。そうではない。その先にこそ、本当の命――永遠の命――はある。これもまた、一つの考え方。どちらの立場を採るのも自由でしょう。しかし、どちらを採るかによって、その人の人生は、大きく変わってきます。
神は永遠の命。その命が、自分の内にも与えられている-そうイエスは理解していました。その意味で、彼は、自分を神と等しいものとしました。ですから、彼のことばを聞いて信じる者は、永遠の命に与ることができます(ヨハネによる福音書5章24節)。ユダヤ人にとって、しかし、これは許しがたいこと。なぜなら、彼らにとって、神は唯一なのですから。永遠とは、時間の枠には収まりきらない、ということ。つまり、初めもなく終わりもない、ということです。私たちの命は、この永遠の内に記憶され、忘れられることはありません(イザヤ書49章15節参照)。
父と自分は一つである(ヨハネによる福音書17章22節)—これはイエスの確信でした。なぜなら、彼は、父の思いと自分の思いの間には、何の乖離もないと信じていたからです。イエスの命の意義は、自分の意志を行うことではなく、自分を遣わされた父の御心を行うことにありました(同5章30節;6章38節参照)。それ以上でも、それ以下でもありません。
「大丈夫」—これは、命から私たちへの祈りの言葉。
**鯉のぼりしなのたかしの夢に泳げ**
(竹内 修一=上智大学神学部教授、イエズス会司祭)