フランシスコ教皇が天国に帰られたこと、心からご冥福を申し上げます。これを機に、考えたことをコラムにまとめました。
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先月の私のコラムを読んだ未信者の友人からこんな言葉をかけられた。「麻衣さんの文章を読んで、信じるものがある人は、僕とは違う世界に住んでいるんだな、と思いました。あまりにもまぶしいし、心に拠り所がある人たちが羨ましいです」私は、その言葉に、思わずドキリとしてしまった。そして、その言葉をきっかけに、私が誰にも打ち明けてこなかった気持ちを、彼の前で話すことになった。
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洗礼を受け、いざ、信者になってみて、私は喜び以上に戸惑いを感じていた。神の存在を疑っているわけではないのに、なぜかまわりの信者たちと混ざれない感じがしていた。「本当は私には信仰がないのかもしれない」と悩んだこともある。
その理由が分かったのは、受洗してから約10年後に、こんな意味の言葉を目にしたのがきっかけだった。「昨今、見えないものや神の存在を信じる人が減った。自分の親でさえ信頼できない子どもたちが増えたのだから、それはある意味当然とも言えよう」。読み終えた私は、愕然とした。そもそも私は、『信頼する』という感覚が分からないことに気がついた。
人は、母親との関係の型を、他の人間関係においても無意識のうちにトレースしてしまう。なので、母親との関係性は、後の人生に大きな影響を与える。私の母は、精神的な問題を抱え、不安の強い人だったので、私は母との愛着関係を築けなかった。それは、私の後の人生に多くの課題を残した。
「親ですら、本当の自分を愛してくれないのだから、他人が私を愛せるわけがない」と、私は考えていた。人付き合いを避けていた時期も長かった。友人たちにも心を閉ざした時期、私のスマホの電話帳には、片手に収まる数の連絡先しかなかった。
ただ、本当は、私を愛してほしいと願っていた。受洗から15年以上経ち、その気持ちに向き合い、素直になると決めた。その背中を一番強く押したのは、私の意思ではなく、周囲の環境が良かったことと、それに与れる運に恵まれていたことだった。少しずつ「信頼するって、こういうことかもしれない」と体感できるようになった。
それに派生して、こんな素晴らしい人々を周囲に配置してくださった『大いなる存在』に目が向くようになった。
そんな過程を経て、私は今ここにいる。
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「愛ってどんなものですか?」そう彼に聞かれた瞬間、私は過去の自分と彼とが、重なって見えた。かつての私も、『愛とはなにか?』といろんな人に聞いた。当時の焦りや混乱、孤独、渇望などが大波のように押し寄せた。私が「言葉では説明できない。感覚的なものだから…」と答えると、彼は、いっそう深く額に皺を寄せて、真剣に考え始めた。
そして、彼はおもむろに顔をあげ、「もっと僕に迷惑をかけてほしい。気を遣わないで接してほしい」と言った。その言葉を受けた私は、胸に両手を当てた。そういえば、私自身にも、どこか彼に遠慮する部分があったのは否めない。私もまだ回復の途上にあることを改めて感じた。
彼の存在は、私が私自身を愛せるようにしてくれた。私の存在も、彼自身を愛し始めるきっかけになれたら、と願ってやまない。また、それがろうそくの灯りを分けるように、世界中に広げたい。それは壮大な夢で、大海に一滴の水を落とすようなものだとわかっていたとしても。
神よ、どうか私をあなたの平和の道具としてお使いください。アーメン。
(東京教区信徒・三品麻衣)