明けましておめでとうございます!
今から20年前の1月に訪れた、タイ北部の山岳地帯にあるカレン族の村での体験は、私自身を構成する欠かせない要素です。日に焼けた手で、私の白い手をぎゅっと握りしめて歓迎してもらった時の喜びは、当時の2倍の年齢になった今でも、鮮明に思い出せます。
カレン族の文化には「食事を相手に食べてもらうことが祝福」というものがありました。未信者だった私は、祝福という言葉がぴんときませんでした。けれども、お世話役のシスターの「祝福を断るなんてできないから、出されたものは、一口でもいいから食べてね」と念を押されました。食べ終わると、隣の家からも「オメ(ご飯だよ)」と声がかかりました。そんなことを繰り返して、私は朝ごはんを3回も食べることになりました。
どの家へ行っても、村人たちは食事の前に、十字を切りました。十字を切る姿は、まるで呼吸をするように自然な動きでした。見よう見まねで私もやってみましたが、うまくいきませんでした。
ある夕方、私の家のモーモー(お母さん)と、のんびり湯冷ましを飲んでいたら、遠くの方から、カーン、カーン!と鐘の音がしました。それを聞いたモーモーの表情が、ぱっと明るくなり「ミサ!」と嬉しそうな声をあげました。その様子を見た私も、なんだかウキウキした気持ちになりました。
私たちは、手をつないで教会へ向かいました。日はあっという間に傾き、村人たちが、続々と、焦げ茶色をした木造の教会の入り口に吸い込まれていきました。電気が通っていない教会なのに、ぼんやり明るかったです。中に入ってみると、一人一人のそばには、小さなロウソクが立ててあった。となりのロウソクの灯りをもらって、少し溶けたロウを、丁寧にぽとりと床に垂らし、その上にロウソクを立てるーその丁寧な手つきから、もう神聖なミサが始まっていると感じました。
山岳地帯の冬の夜は、信じられないほど寒いものでした。床に直に座るので、冷え込みが強く、私たちは、毛糸の帽子をかぶり、ダウン着込んだ状態で、ミサに与りました。
司祭から「祈りましょう」という声があり、お御堂がしんと静まり返りました。その時、私はどうしてもモーモーがどんな風に祈るのか、気になってしまいました。そっと盗み見るように、私は目だけを彼女の方へ向けました。すると、彼女は、いつもの賑やかさから程遠い、静かで清らかなのに、密度の高い空気をまとっていたのです。手を合わせ、目を閉じた彼女の顔を、足元からのろうそくの光が、照らしていました。その様子を見て「祈りは、信者にとって、何よりも大事な時間なんだ」と初めて知りました。「祈りは、神様との親密な語らいの時間だ」だと体感した瞬間でした。
ミサが終わると、モーモーはいつもの明るい笑顔を見せ、私の手を取り、にぎやかに話しながら、家路へ向かいました。このような祈りの時間の積み重ねが、彼女の生活を作っていることが、すとんと胸に落ちました。
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「過去と人は変えられない。変えられるのは、自分だけだ」とは、よく聞く言葉です。そして、祈りもまた、どんなにお願い事をしても、「過去や周囲の人間たちを変えるわけではなさそうだ」と感じます。ただ、祈ることで、私自身が変化するのは実感します。環境や状況は、簡単には変わらないけれども、私自身が変化を拒むことさえしなければ、未来は明るいものになるという気持ちです。
2025年1月、皆様にとって今月が素晴らしい一年のスタートでありますように!!
(カトリック東京教区信徒・三品麻衣)