「なぜ、こんなことが、私に起きるのだろう?」普段なら流せる些細な、すれ違いやトラブルだとしても、それらが重なると、前向きに考えるのが難しくなってしまう。自分の信念に従って行動した時には、尚更だ。風船から空気が抜けてしまうように、あっという間に希望が消えてしまう。
きっかけは、理不尽な目に遭っていた仲間を、私が助けようとしたことだった。私の言動は、周りからは理解されなかった。「正しいことをしたのになぜ? 言わなければ良かった」という無力感が心を覆った。処理できなかった感情が積み重なり、いつしかそれらが生ゴミのように腐敗臭を漂わせた。
気持ちが沈む中、一生懸命に打開策を考えては実行した。けれども、一向に解決しなかった。「もう、できることはやった」-その自覚はあったが、どうしても諦めきれなかった。
考え込んで数日、「もうにでもなれ!」と降参するように、散歩に出た。目的地を特に決めずに、無心になってしばらく歩いていた。そんな時、急に頭の中にこんな考えが浮かんだ。「神さまは、私に何をお望みなのだろう? 私にどんな役割を果たしてほしい、と考えていらっしゃるのかしら?」。すると、爽やかな風や、緑のきらめき、広がる青空が、急に感じられるようになった。物事は何も解決していなかったが、生きるエネルギーが沸いてきた。
後日、先に記したトラブルは、意外な、良い形で終結した。また、その人が理不尽な行為に及んだ背景を知った。反省の言葉と謝罪を受け、その人の素直さに心を打たれた。人生何が起きるか分からないものだ。
こんなふうに「なぜ?」と原因を人間の視点で考えるのではなく、神さまの思いや望まれることに思いを馳せたとき、気持ちがすっと軽くなった。振り返ると、私の心は、自分の思いでパンパンになっていた。心に余白がなくなっていた。私を通して主の思いを実現させるため、私のやりたいことではなく、神さまが私に何を望まれていることに注目したい。そして、それをいつでも受け取れる余白と余裕を、心に用意していたい。
(東京教区信徒・三品麻衣)