・画家・世羽おさむのフィレンツェ発「東西南北+天地」②「心と愛」

 私のコラムは、緩やかに第一回からつながりを持たせて、書いていこうと思います。なので、時間があったら、前編からご覧ください。

 よくキリスト教は西洋のもの、つまり、東洋と対比するものと思っている方々とお話をするのですけれど、イエスのことは、ヨーロッパに弟子を通して伝えられました。つまり、ヨーロッパ文化の基盤にあるキリスト教は、むかしむかし、2000年前、西洋では異教であったのです。

 では、イエスは私たち、古今東西すべての人に何をもたらしたのでしょうか? それは、愛です。

 愛と一言にいっても、いろいろな局面に表されるもので、例えば、パートナーに対する恋慕の情、家族や友人を大切に思う気持ち、また子供を愛おしく思う気持ちですね。共通しているのは、見返りを求めないこと、純粋で、与えることに満足する、ということです。また、ありのままを受け入れることでしょうし、相手の必要とすること/ものを理解し、与えることでもあるでしょう。そして、最も大切なのは、愛は自由な選択を好む、ということです。押しつけた愛は、矛盾的であり、行為によって意義を否定する、悲しいものとなります。

 ただ、この愛の自己犠牲的な姿勢は、ことわざでいう、「自分に厳しく、他人に優しく」といったものとは、本質的に異なります。なぜなら、誰かを愛するためには、まず、愛されていることが大切なのです。

 イエスは、使徒たちに最期の晩餐で、おっしゃいました。

 「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛しなさい。互いに愛しあうならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう」(ヨハネによる福音書13章34-35節)

 また、人を愛することと赦すことは、深くつながっています。また、イエスはおっしゃいました。

 「あなたがたの父が慈しみ深いように、あなたがたも慈しみ深い者となりなさい。人を裁くな。そうすれば、自分も裁かれない。人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められない。赦しなさい。そうすれば、自分も赦される。与えなさい。そうすれば自分にも与えられる…」(ルカによる福音書6章36‐38節)

 ここでいう父は、つまり、私たちを常に見守っている、私たちの心のすべてを知っている超越的な存在で、肉親ではありません。その存在の名前をどうつけるかは別にして、つまり、「あなたは、貴重な存在で、愛されている」ということです。どんなに、仕事場、学校、または家庭で人間関係が難しくても、この「父」は、あなたを純粋に愛しています。

 何か、怖いですよね。名前も知らないし、実際会ったこともないし、自己紹介もしてないし。ただ、私たちが、彼と会いたいことを望むのであれば、いずれ、その機会がくることでしょう。

 イエスは、私たちの自由な心での選択について話しているのです。自分に害を与える人の前でさえ、本能的反応を超え、相手を裁かないで、赦すことを選択する、内面的、精神的自由によって、彼または彼女を愛することができます。その結果、より人間らしくなります。イエスが、身を持って、彼の人生とそして、復活によって示してくださいました。

 さて、最後に、少し日本社会に目を向けて見ましょう。2024年の新紙幣では、明治期のクリスチャンである津田梅子などが顔を出すようで、経済状況悪化も影響して、日本も転換期に来ているのでしょう。

 天然災害の多い日本の歴史で集団を尊重する文化が育ったことは、うなずけますし、また、良かったことでもあるでしょう。平安時代までは、女性がとても、尊ばれていた

日本文化でしたが、キリスト教迫害期の江戸時代以後、国学として、儒教道徳が正式的に取り入れられ、今でも、それが日本の人間関係の基盤になっていることを、どれだけの人が気付いているのでしょうか?

 父に仕えることは「孝」、君(また、現代でいう会社の上司)に仕えることは「忠」、友に交わることは「信」、民を治めることは「仁」。愛と共に、心から行われれば、この道徳も成就するものの、反対に形式だけを重視すれば、人を道徳の名のもと、裁く要因にもなりかねません。

 一方、19世紀、明治維新の原動力となった、陽明学は、それまでの儒教を以下のように、人間化しました。

 「それら(孝忠信仁などの徳)はすべて我が心にこそかかっているのであり、であればこそ、心がそのまま理であるのだ。この心が私欲に覆われてさえいなければ、それはそのまま天理なのであり、それ以上何も外からつけ加えるものはない。この天理に純なる心をこそ発揮して、父につかえれば、それがとりもなおさず孝であり、君につかえればとりもなおさず忠であり、交友・治民の上に発揮すればそれが信であり仁であるのだ。」(王、p13)

 明治期には、国を変えた、たくさんに人々がクリスチャンだったことも、特徴的ですが、陽明学は現代において、忘れ去られているようです。私たちの社会で、本当に年齢、性別、人種、文化などの多様性を心から自由に愛する選択を個人個人がすることで、一歩ずつ、社会が、形式を超え、人間らしくなっていくのでしょう。僕自身、イタリアで移民として、生活をしていますが、日本が移民を受け入れることは、社会によい影響を与える機会とすることができますと思います。

   聖霊を通して。

  次回は、芸術、美を通して「日本らしさ」について、書いていきたいと思います。

 (引用は、「聖書」(聖書協会共同訳、日本聖書協会)、「伝習録」(王陽明著、溝口雄三訳、中公クラシックス)

(世羽おさむ、写実画家。ウェブサイトwww.osamugiovannimicico.com/jp  インスタグラム www.instagram.com/osamugiovannimicico_artist/ フェイスブックhttps://www.facebook.com/osamugiovannimicico/ )

(絵は世羽おさむ作「マグダラのマリア(イエス復活の最初の証人)」 油彩、カンヴァス、75x60cm、2021、個人蔵)

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2021年4月7日