教皇フランシスコが88歳の生涯を終えられ、 2025年5月18日、 69歳のレオ14世がローマ教皇に正式に就任された。就任式ミサで「『神の愛に根ざし、一致のしるしとなる教会、 人類の調和の酵母となる宣教する教会』を築こう!」(「カトリック・あい」) と説教された。
世界中のカトリック教会の課題は山積みだ。
「もう、教会がめちゃくちゃ」と目に涙をためて訴える若手?の 外国人女性。そして、「今の教会が心配」「別の教区に転出しようと思う」 「教会に来たら気分が悪くなる」等々、若手?の 日本人女性信徒たちの今の教会への悩みは切実である。残念ながら、こうした声は、決して、教会のトップ集団には届かないだろう。
信徒の訴えや悩みを受け、信徒代表が教区長に相談に行くが、一般社会では考えられないような結果になる。「 教会」という組織には、信徒の意見は必要なく、ある司教のように「 そのような信徒はいらん」と吐き捨てるように言われ、 開いた口がふさがらない信徒たちは、去るしかないわけだ。
日本社会での宗教は外国人の宗教観とは大きな違いがある。 今回の教皇選挙で、バチカンの聖ペトロ広場で結果を見守る信者 の中に、日本人はどれくらいいたか。日本の国旗は見えたか。 日本人の中には、 今回のニュースからカトリック教会を知った人もいるだろう。聖職者による性的虐待のニュースからカトリック教会を知っている人もいるだろう 。 復活祭で受洗し、喜びでいっぱいの信徒生活をスタートした日本人 もいるだろう。
今、日本人信徒の大半は高齢者である。 彼らの大半は外国人宣教師に育てられた。修道会の外国からの寄付によって聖堂が建てられ、外国人 宣教師と共に青春時代を過ごした信徒も少なくない。当時の日本社会では、特に地方では、外国人が珍しい存在だったこともあり、私たちの世代以降の司祭に対して抱く思いとは大きな違いがあるのかもし れない。
私は、十数年前に、あるスペイン人宣教師が日本を去る時の挨拶で「 これからのカトリック教会は日本人司祭が中心となることでしょう 」と言われたのを覚えている。 この司祭が帰国するとは思っていなかった私は、とてもショックを受けた。その時期には、次々と司祭が教区を去られていたこともあった。
そして今、私の周りで見る限りかもしれないが、いよいよベテラン外国人司祭と日本人司祭の関係が変わる時期に入っている、と感じる。
若手?の 教区司祭がベテラン外国人宣教師に対して敬意を払わない言葉をミ サ中に信徒は聞かされる。 この司祭に何があったか存じないが、信徒に対しても苦言を呈し、 共にミサをなさる聖職者は笑って(?)いるとのこと。ここまでひどい聖職者は珍しいかも知れないが、信徒たちにとって、今までの聖職者の認識を変えねばならない時期が来ている ようだ。
まともな信者と聖職者が減り続ければ、小教区や教区の存続は難しく なるだろう。日本の教会関係者は、教会を「組織」と考え、「イエス」をどこに置いているのか。 今の自分たちの”世界”と安泰だけを守るのではなく、教会の現状を 直視し、 イエス中心の愛ある教会を取り戻すことを考えてもらいたいのだが…
故ジョルジュ・ ネラン神父は著書『キリストを伝えるための核心とヒント』に次のように書いておられる。
福音書には、教会における『組織憲章』ともいうべき基礎・ 基本が、明確に記されている。「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。『あなたがたも知っているように、 諸民族の支配者たちはその上に君臨し、また、 偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。 あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆の僕になりなさい』」(マタイ福音書20章25~27節)。
この福音は、司祭が権威によって信者に何かを指示・命令したり、 コントロールしたりするのは間違いであること、また「司祭に権威があるから信者は何でも従わなければならない」と言うように、 司祭に依存的になる必要はないことを説いている。
このネラン神父のように、日本にキリストを伝え、 身も心も日本の地に捧げている西欧人宣教師の姿は、今や貴重である 。日本のカトリック教会での中堅?若手? 司祭の年齢も社会とは大きなずれがあるようだが、聖職者、 修道者含む信者全般が社会に沿う教会で人間として生きる必要があ るだろう。