・愛ある船旅への幻想曲(43) 広島の原爆記念館を見学し、「オッペンハイマー」を観て思ったこと

 8月上旬、所要で広島に行き、その足で平和公園に案内していただいた。初めて平和記念資料館を見学した。広島には、何度も行ってはいるが、どうしても足を運べなかった場所である。
 この日も噂通り外国人観光客が大半だった。映画『オッペンハイマー』効果なのか。この映画鑑賞後、元広島市長の平岡敬氏は「映画の中で被爆の実相がほとんど描かれてない」と指摘された。私も、オッペンハイマー氏の目線から描かれた原爆開発に対して価値観の違いを感じている一人である。
    友達のアメリカ人と原爆について話す時、「これを落とすと戦争が終わる、と教えられていた」と言う。オッペンハイマー氏の孫が今年6月に来日され、祖父の苦悩も話されたが、原爆を開発し尽くさねばせねばならなかった物理学者としての事情があったのは、大きな問題である。
 原爆ドームは、核兵器の怖さ、悲惨さをありのままの姿で静かに訴え続けている。一言で『平和』は語れない。“平和運動”の一環行事として、お祭り気分で『平和』を謳うだけではいけない、と改めて思った。
 今年も「こどもピース・サミット」が開催され、次代を担うこどもたちの平和の意見発表から『平和への誓い』が述べられた。
 「一人一人が相手の話をよく聞くこと。『違い』を『良さ』と捉え、自分の考えを見直すこと。仲間と協力し、一つのことを成し遂げること。私たちにもできる平和への第一歩です」(『平和への誓い』から抜粋)。
 カトリック教会は、子どもたちからの平和の発信を、どのように受け止めるのか。

 「平和は、単に戦争がないことでもなければ… 常により完全な正義を求めて人間が実行に移さなければならない秩序の成果である… 平和は…絶えず建設されるべきものである」(「現代世界憲章」=カトリック中央協議会・改訂公式訳78項参照)

 ブラジルで青少年司牧担当司祭(31)が複数の少女たちに性的虐待、一人に中絶を強要し逮捕されたことを「カトリック・あい」で知った。この場にいた教会奉仕に携わる信者方もコメントをしようとしなかったようだ。これが教会の姿なのか。
 キリストの福音は「神の子らの自由を告知し、かつ宣言し、最終的には罪に由来する全ての隷属を拒否し、良心の尊厳とその自由な決定を厳粛に尊重し、人間のあらゆる才能を神への奉仕と人々の幸福のために活用するよう、絶えず勧告する。そして、すべての人にすべての人を愛するように勧める」(現代世界憲章41項参照)
 現代世界憲章は、教会の使命を宣言し、一人ひとりの人間に焦点を当てている。そして、地上の平和は隣人に対する愛から生まれ、キリストの平和の結実と教えている。神を畏れ一生涯共に支え合う真実の愛、人の評価と見返りを求める偽善の愛、愛も一言では語れない。そして、同憲章は結語で次のように強調している。
 「まず教会自身において、我々が全ての正当な相違を承認しつつ、互いに認め、尊敬し合い、協調することを促進するよう求めている。それは、我々が一つの神の民を構成している司牧者および他のキリスト信者を含む全ての人と、常に実り豊かな話し合いを持つためである… 必要な事柄においては一致、疑問のある事柄においでは自由、全てにおいては愛がなければならない」(92項参照)。

 世界の、そして日本の”現役”の司教たち、司祭たちは、この60年前に第二バチカン公会議が出した「現代世界憲章」を、心して読み、実践しようとしたことがあるのだろうか。それとも、「過去の遺物」として忘れ去ってしまったのだろうか。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2024年9月2日