歳とともに暑さが身に応える。愛猫と過ごす夏は、暑くても難なく乗り越えられたが、今年の夏に愛猫は居ない。。
愛し愛されたからだろうか。長患いもせず、綺麗で見事な旅立ちを、私たち家族は彼から学んだ。猫を持って、猫可愛がりを体現した14年だった。
ペットを飼ったことがない人たちはペットの死を体験することはない。この寂しさに身を置くこともない。。
人間として生きていると、何事も身を持って体験せねば分からないことが多いだろう。
動物観は、国や地方によって違うらしい。西洋人の動物観は、旧約聖書の創造主である神が、全ての生き物を創った後に、神に似せて人間を作り支配することを許したことから、人間が支配するとされる。日本人の動物観は、仏教の輪廻転生の考え方があり、不殺生から人と動物とは同格とされている(和辻哲郎哲学者ー動物観の形成に影響を及ぼす風土から)
そんな日本にも動物虐待が後を絶たない。私が住む県にも、動物愛護団体が増えている。私が知るシェルターには、世界各国からボランティアが来ている。彼らの動物への愛は半端でない。以前は、毎年夏休みを利用し、短期滞在のアイルランド人のカトリック信徒がミサにも参加されていたが、今は外国人ボランティアがミサに与ることはない。世界中で後を絶たないカトリック教会の性的虐待ニュースが世界各国の若者たちに影響していることを、ここでも知る。
先日、久しぶりに会った女性信徒3人でランチを共にした。一人が言った―「私は今、外国人のミサに与っているの」と。暗に日本人が教会に居ないことを告げようとしたのだが。すると、もう一人の高齢女性が「教会の悪口はやめましょう」。この言葉に、先ほどの方と私は「これは“教会の悪口”⁇ 事実を伝えているのでしょう⁉︎」と反論した。すると、その方は、『教会に対して絶対に負の発言はしないように。教会ってどういう所⁈と思われるじゃない』と反撃された。
今の教会の状態を改善する気などさらさらなく、閉鎖的で旧態依然とした教会で満足する信徒がここにも居ることを改めて知らされた。なぜ、カトリックが「真実を隠す宗教」になってしまったのか。真実を言う信徒の自由さえ奪い、「体裁だけのカトリック教会」を世に伝えようとする信者像が社会で受け入れられるはずがない。
イエスは、なぜ十字架上で血を流されたのか。今一度正しく学ぶ必要があるのではなかろうか。
司教、聖職者を含む信者の二極化から差別が生じ、真摯に教会を考える聖職者と信徒を無下に扱う教会で、司教に”付き従う”聖職者と信徒に、“隣人愛”を語る資格はない。自覚も反省もないままでは、今後、ますます信徒が減り、小教区、さらには教区の合併再編が増えることだろう。
第2バチカン公会議を機に、世界に、社会に開かれた、全ての人々と共に歩む教会に向けた刷新が始まったはずなのに、60年経った今も、このような日本の教会の状況がある。その原因が、今わかるような気がする。そして、従来通りの教会を望んでいる信者たちを「保守派」として肯定的に受け止める風潮がある。何を持って『保守』と言うのか。開かれた、共に歩む教会にも、そのための改革にも興味がなく、「自分に居場所のある教会」に安住しようとする信者たちを『保守派』と”前向き”に呼ぶことに、私には大きな抵抗がある。
60年前と今の世界、社会は随分変わってきている。カトリック教会はどうだろうか。私は、教皇が2021年秋から始められた”シノドスの道”に、どう対応すれば良いか分からなかった。適切な指導を信者たちにする指導者も教区にはいなかった。亡くなられた森司教から「開かれた教会をめざして―NICE1公式記録集」に目を通すことを勧められた。。
今も「聖職者中心主義」の指導者たちに委ねられた教会の姿がある。私のように60年前に子供だった信徒は、今の後期高齢信徒の聖職者への思いとは全く違うのである。「神父さま〜司教さま〜」と目がハートマークになることは一切なく、「悪いことは悪い。変なことは変」と、はっきり言う。そして、嫌われる。結構なことだ。非人間的な組織が教会と呼ばれ、頭ごなしに自分勝手な教会論を押し付けられる現状は、まだしばらくは続くだろう。しかし、限界がもうすぐ来ることを忘れてはならない。
いついかなる場所であれ、愛を持って綺麗な旅立ちをしたい私である。
(西の憂うるパヴァーヌ)