・愛ある船旅への幻想曲(41)”遺産”を大切にしないカトリック教会…そして正教会のミサで体験したこと

 私は今、戦前の教会聖堂についての情報を、信者でない方から頼まれて、集めている。そこで、驚いたことがあった。今の聖堂とは全く違う、繊細な作業が施された祭壇と壁画だ。

 教会創立100周年記念誌を準備作成した時にも、この写真は見ていない。私たちの小教区を担当してきた各宣教会に問い合わせたが、この写真はどこにも保管されていない。親が当時の信徒だったと思われる三組の家族にも問い合わせたが、期待した答えはなかった。「仕方ない」と諦めねばならないのか。

 過去の教会について、語り継ぐ作業ができてないこと、歴史を尊ぶ司祭が居なかった、ということか。「教会とは何か」、さらなる問題である。

 資料集めのために、聖ハリストス正教会を訪ねた。同級生のお父様がこの地での正教会設立に尽力されたこと、その時まで正教会の信者はカトリック教会で共にミサに与っていたこと、を聞いていたことから、「もしかしたら、、」と思ったからだ。

 また、彼女のご主人が、この丸いドームのビザンチン様式の聖堂を設計された、と聞いていたので、一度訪問したいと思っていた。せっかくならば、と日曜日のミサに与らせていただいた。以前、サンクトペテルブルクに留学していた長女の卒業式に出席した時、ロシア正教のミサも行われ、司祭方の祈祷する歌声はプロ級のテノール、バリトン、バスで構成された男性三部合唱となり、荘厳で美しいミサを今も覚えている。日本でのミサは、どのような流れなのかと興味津々であった。

 信徒は少なかったが、司祭はよく通る声で祈りを唱え続け、補佐する一人の青年との歌声は聖堂に響きわたり、終始立ったままの信徒も、答唱を続ける。有名画家のイコンとゆらゆら揺れる蝋燭の火が祈りを深めてくれる。私は、聖歌本やミサ祈祷小冊子のページの確認に必死であった。このようなテンポの速い、忙しい?ミサに与る信者方の忍耐、身に付いた祈りの姿勢、何よりも、司祭の前で跪き涙するロシア人女性の姿は、私に信仰の意味を改めて認識させた。彼女に終始、笑顔はない。

 いよいよ司祭の説教である。今までとは違い、穏やかな口調で始まった。気負いのない説教の中で「今日は、カトリック教会の方々も来て下さり…」と、共に祈る喜びを笑顔で述べられ、自然体でありながらも抑揚をつけた清々しい説教は、私にとって新鮮であった。日本人司祭の全く普通の感覚、正直な対応から「人間である司祭」を見た。そこに「人間イエス」を感じた。そして、初めてエキュメニズムの意味と必要性を私は受け入れたのである。身を持って経験せねば正しく理解する事も語る事もできないことを、神は私に教えてくださる… それを実感した。

 洗礼を受けていない中学一年生の男の子から「イエス・キリストって本当に生きていたの?」と聞かれた。即、「あなたにとってイエス・キリストはどんな人?」と聞き返した。彼は「“たまたま”預言が当たった人」と答えた。“たまたま”当たった預言を周りの人が“たまたま”広めたと言うのだ。実に面白い。彼にとって全て“たまたま”なのだ。

 社会の教科書で学ぶ各宗教への素直な疑問と感想を子供たちが持っていることを、私たちは知らねばならない。今の子供たちには、とんでもない知識があり、並大抵の知識では太刀打ちできない。一神教であるキリスト教にも教義の違う教派があること「なぜ?」と問う、小さな種をどう育てるのか。カナダ人の彼の母親は無宗教である。

 日本人に(勘違いの)プライドだけのカトリック信者がおられることは重々承知している。問題のある教会の動きにも見て見ぬふりをし、とにかく自分の楽園を教会に求めるだけの信者生活…。このような信者を”育てた”ことについて、一番反省せねばならないのは聖職者だと私は思っているのだが。

 平日は、サラリーマンをしている(彼の言葉から)という正教会の司祭との出会いを、心から神に感謝した。私は、前任の司祭だった彼のお父様のことは存じていた。こちらのカトリック教会創立100周年の式典にも喜んで参加して下さった。「父が残した6箱の写真整理がまだできていなくて…」と現司祭は言う。そのダンボール箱が“宝箱”であって欲しい、と願う私である。

 

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2024年7月1日