先週、カトリック教会とプロテスタント教会の葬儀に中1日空けて参列することになった。神様のご計画に涙した私であった。
天に召された二人の友(91才と77才)は、家族で一人だけのキリスト者だった。生前、彼女たちは教会で葬儀をするようにと子供たちに託していた。両家とも「家族葬」との案内だったが、参列後の私の気持ちは、随分違った。葬儀式をする司祭と牧師は同世代だったが、それぞれのキリスト教での”死”への見解が違うことも当然ではあるだろうが、いろいろ考えさせられた私である。
最近、カトリック教会では若手(60歳代まで?)と言われる司祭方の説教や黙想会の中での話から共通して感じることがある。司祭自身が持つ、”司祭像”が変わってきているのではないか、ということだ。(信徒が持つ、”司祭像”が変わってきていることは、だいぶ以前から感じてはいたのだが)。
カトリックの小神学校から司祭の道を歩んできた欧米人司祭が中心だった時代から、現代は社会人を経て司祭召命があった日本人司祭の時代に変わってきている。
「私たちは、三つの相違なる集団、すなわち、(1)カトリック的な集団、(2)キリスト教的集団、(3)非キリスト教的な集団を考察しなければならない」(第二バチカン公会議解説書『世界に開かれた教会』から)。
教皇ヨハネス23世以来、カトリック教会は、実践においても発言においても、この見方を確認している。カトリック教会は一つの時代に決別を告げたのである。世界そのものが、あまたの変化をとげて新時代に突入したというのに、どうして教会だけが古い時代にしがみついていることができようか。世界を揺るがしている大きな変化が、教会にも強い影響を及ぼし、教会自体と世界における教会の使命について反省を促している。キリストのもとに集まる民である教会の反省、転換、刷新は、常に教会の源泉に戻ること、イエズスの福音の純粋さに帰ることでなければならない。
第二バチカン公会議を終えて今年で60年である。カトリック教会は20世紀半ばの第二バチカン公会議を境に大きな様変わりを経験したというが、その歴史的転換期の様子を私は知らない。公会議は、ローマ聖座と一致した司教たちの会議だ。司教=教区長として各々の小教区の状態を知らなければ、公会議に参加する意味がないだろう。
日本の全ての司教様方を存じていない私であるが、未来の教会を憂い行動に移した方は、タイプは違うが今は亡き森一弘司教と溝部脩司教のお二人だ、と私は勝手に思っている。1970年以降からの教会は、高齢化に加え、若者の教会離れが加速している状態が今も続いている。溝部司教は説教集の中で罪について教区長として自分について語っておられる。
「私が高松教区の司教として困難に遭遇し、いろいろな反対を受けるとしましょうか。そのとき、『まあ、しょうがないか』とすべてを投げ出し、『まあ、なるがままになるさ』と、これぐらいのやり方で、教区そのものを駄目にしてしまうとしましょう。活気のない、もう、見るからに立ち上がることのできない教区にしてしまう」
「そのとき、私に罪はないのでしょうか。そのとき、神の恵みを信頼して、信じて、そして、どんな困難があっても立ち上がって働かなければいけない、というところに至らなかった、その点において私は罪深い、と考えなければいけないのです」
「私がその決心をすることができなかったために、高松教区は、活気のないつまらない、難しい教区になっていったとしたら、私は自らの罪をやはり悔いると思いますし、一生をかけて償わなければならないことになります。罪を考えるときは、いつでもこのように相手の立場に立って考え、自らを振り返る、こういう視点が必要です」(溝部司教の『聖霊の息吹を受けて』 2004年10月31日の説教より抜粋)
・・・・・・・
森司教と溝部司教は、その時だけの自分の安泰だけを望まれてはいなかった、と私は確信している。お二方の共通点は感覚が若く、ビジョンと共に先見の明を持っておられた、ということだろう。それ故に、下の世代の私たちの意見を真剣に聞いてくださり、見放すことなく叱咤激励してくださった”人間司教”としての器の大きさには感謝と尊敬の念しかない。
人としての生き方を知らないなら、聖職者として生きていくことは難しいのではないだろうか。互いに理解するためには、”確かな愛”が必要だろう。キリスト教的集団の中におられたイエスは一人の人間として生きられたのではないか…。
最近の私は、「この愛を永遠に信じたいのです…」と、人間イエスに日々伝え、問いかける日々を送っている。こんな私を神様は全てご存じだろう。
(西の憂うるパヴァーヌ)