6月は、主の昇天・聖霊降臨の主日・三位一体の主日・キリストの聖体・聖ペトロ聖パウロ使徒と教会の祭日が続いた。カトリック信者として豊かな典礼に、心も新たに喜びを感じる主の日は、神のみ業を感じ深く味わう必要があるだろう。 司祭の福音説教からも、信者として深い黙想をせねばならないだろう。。
イエスの福音のメッセージを、私たちはどのように理解できているのだろうか。その時々にイエスが伝えたい言葉は何なのか。イエスは決して「口先だけの人間」ではなかっただろう。そして、恐れることなく、「間違ったことに、即刻忠告する人間」ではなかったか。
このように私が思うイエス像は正しいのか、正しくないのか。それを知るためにも、日曜日の司祭の福音説教は信徒にとって、とても大事であるはずだ。司祭になるために半端なく聖書を読み、神学生時代には養成担当司祭から良き指導を受け、さらなる聖書解釈をされている司祭方のイエス像に、私は興味津々である。
そのイエスが思う教会と今の教会の姿は同じだろうか。①小教区発表の現況、登録信徒数や、会計報告などから知る教区の方針。②個別の事例について教区の担当者とやり取りすることから知る教区の方針。③『人間の尊厳』を大切にすべきカトリック系病院の医師と看護師の姿勢。この3点からイエスの姿は見えず、全てに“お金”が絡んでいることを知った私の6月でもあった。(神は全てご存知であっただろうが…)
今、信者は、あまりにも都合よく、イエスを解釈しているのではないだろうか。だが、自分の思いと自分を守るだけの信者生活なら、教会に希望は生まれない。。
いろいろ経験し、気持ちがふさいだ6月であったが、カトリック教会衰退の原因が再確認できたような気がする。今まで文句を言っていながら「私は、皆に従うだけ」と、しゃあしゃあと言える”ご都合主義”の信者魂が教会を衰退させてきたのではないだろうか。改めて故溝部司教の説教を思い出す。
「教会は、ただ、くっついて行くだけの人では成り立ちません。私たちは”指示待ち族”ではありません。一人ひとりが神様の思し召しに従って立ち上がる、生きるようになる。これが聖霊降臨です。すなわち、これが教会の始まりです」(2005年5月聖霊降臨ミサ説教より抜粋)
「イエスの愛を生きるためには、厳しい覚悟が必要」と私は思っている。様々な妥協の中だけで生きることは、いかがなものか。イエスは自分の生き様から、私たちに生きる意味を教えてくださっている。決して、楽な道だけを教えてはおられない。信者か未信者かに関係なく、まともな人間として生きるためには、自分の誤ちを正当化せず、徹底的な愛を持ち『識別』することをイエスは求めているのではないか。
昨日、私はバスの中で出会い、互いに笑顔で挨拶だけだった外国人女性と初めて話をした。彼女はペルー人であった。私がカトリック信者ということで彼女との距離は縮まった。世界に広がるカトリック教会の素晴らしさを、ここでも味わった。そして、私たち日本人は、「より丁寧に、敏感に、カトリック信者として生きていかねばならないのではないか」と思いながら6月を振り返る私である。
再び、故溝部司教の言葉…
「人間の尊厳をなくしていく医療の現場に対して、私たちは力強く挑戦していかねばなりません… 同じように、女性の尊厳、子どもの尊厳、これらのものを踏みにじっていく現代社会に対して、私たちは『ノー』と言わねばなりません。一つ一つの命に対して、『決して、犯してはならない』と声を上げていかねばなりません。これが教会なのです」(2005年5月聖霊降臨ミサ説教より抜粋)
(西の憂うるパヴァーヌ)