教皇フランシスコのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈りします。
お亡くなりになる前日、復活祭に姿を現されお祝いの言葉を宣べられた教皇フランシスコは最期まで、現役の教皇だった。
世界中のメディアが教皇フランシスコのご逝去を報じている。そんな教皇は『思想の自由と寛容』と『平和』を祈られた。教皇として戦争は人間性の敗北とはっきりと意見し、死の直前まで平和への希望を訴え続けられた。そして、カトリック教会を改革せねばならないことを宣べ続けられた教皇フランシスコを身近に感じた信者が、どれくらいいることか。
『希望』を2025年聖年のメッセージの中心に置かれた意味が今はっきりと私に伝わっている。
最近の私は路線バスでの移動を楽しんでいる。先日、高齢者が多く集う施設前停留所から杖を持つ3人が乗車した。87歳男性と88歳女性93歳男性の夫婦だ。なぜ私が彼らの年齢を知っているのか。バスのシルバーシートに座ったすぐ、一人の男性が「私は87歳です。あなたは何歳ですか?」と失礼にも女性に話しかけた。バス中に聞こえる大きな声である。女性は答えた。87歳男性は「あなたたちは夫婦ですか?それならばあなたは93歳でしょう!」と彼女の夫に話しかけた。なんと”ピンポーン!”である。
話好きの彼は悦に入って続けた。「高齢夫婦の年齢は一方を知れば簡単に分かる。今の時代は、好いて好かれてでなければ結婚しない。互いの年齢など関係ない。だから若者は中々結婚しない。子供も少なくなる一方。そして、男性が女性よりも早く死ぬからあと10年もすれば女性ばかりが残る。その時には私もいませんが(アハハ)。これからの若者はこの国で苦労すると思いますよ… あなたたちは幸せですね。今も二人で行動できて」と。
この人何者?93歳男性も「私たちは互いに元気ですからありがたい。だんだんと人口が減るのは困ったものです」と、しっかり答える。バスの中で、後期高齢者の方々が日本で生きてきた時代と現代社会への思いを聞くことができた私は、ひとりほくそ笑んだ。これも生きた信仰であろう。
「真の愛は、愛すると同時に愛されることです。愛を受け取ることは、愛を与えることより難しいものです」(教皇フランシスコ 2015年1月18日 フィリピン・マニラでの講話から)。
今年も主イエス・キリストの復活を祝った私たちにとって、生きる信仰とはどういうことか、考える。ある若者からは「カトリックの信仰は八方美人的でしょう。違いますか?」。また別の若者からは「ここの教会はイデオロギーが強すぎるのでは⁈」。ある中学生からは「聖書に書かれたこととか、信じる人がいるんだね⁈」。そして、受洗のために聖書を勉強していた友人からは「聖書を勉強するたびに今までの自分を全否定されているように思って、どうしても神が入ってこないし信じられない」と。
私自身これらの疑問と意見を共有できる側の信者だ。正しい聖書解釈と伝統を望むが故の声は大事だ。伝統を重んじる宗教も社会の移り変わりとともに現代人に合う聖書の解釈、表現の仕方を考えねば、今を生きる信仰にそぐわないと思っているからだ。
聖書を読み、うわべだけの理解や机上の空論に真実はない。私たちは真実の愛を求めて旅を続けているのではないか。私自身、いつ如何なる時も偽善的愛は与えない、受け入れないと心している。幸いにも未信者の友達が”偽りの愛”を語ることを聞いたことがない。彼らは、嘘をついた後の面倒くささを知っているからである。しかし、教会での”愛”は多種多様であり、私は首を傾げることが多い。未信者の友達は何につけても「それがカトリックでしょう⁉︎」と便利な答えを持っている。私よりもカトリックの宗教を理解しているようだ。。
「隣人に関して偽証してはならない」(教皇フランシスコ 2018年11月14日 一般謁見の講話から)
偽りの関わりをもつことは、交わりを妨げることにより、愛を阻む、深刻な問題だ。嘘のあるところに愛はないし、愛することもできない。人々の間のコミュニケーションには、言葉だけでなく、しぐさ、姿勢、さらには沈黙や不在であることさえ関わっているのだ。
(西の憂うるパヴァーヌ)