・愛ある船旅への幻想曲 (47)学び合いの中学生グループの発した言葉に共感する私

 2025年、主のご降誕、新しい年の始まりおめでとうございます。信者未信者にとって、それぞれのクリスマス。戦争や自然災害で平和が壊されている国々のクリスマス…。一人ひとりの上にどのような意味があったのでしょうか。キリストの愛と平和が、皆さんの上にありますように、お祈りします

 年々、子供そして若者たちと接する環境に恵まれていることに喜び、感謝する日々をおくっている。互いに身構えることなく分かち合えるのは、毎回ユニークで考えさせられる問いを発する中学生グループだ。「イエスの教えを広めたのは、後の宣教師・聖職者だ、という本を読みました。それは、イエスが教えたことと違っているのではないか、ということを聞きましたが…」と。

 彼は、どこでその文章を見つけたのか。今の教会の問題はこれで一気に解決できそうな中学1年生からの質問に今回も姿勢を正した私である。後日、若者との集いでこの話をすると「的を得た質問ですね。新鮮であり素晴らしい」と。

 3年間の”シノドスの道”を歩んだはずのカトリック教会だが、日本の教会の現状は、どうだろう。クリスマスシーズン、馬小屋は洞窟に変わり、にぎやかなイルミネーションの飾り方は、若い外国人信徒の自国の風習によるデコレーションであることが一目瞭然である。各教会ともに多種多様性の時代を感じる1シーンがそこにあり、黙想会の指導司教は、外国人に感謝の言葉を最後に述べておられた。

 私が知る地方の教会は、限られた日本人女性が中心となり奉仕されている。日本人信徒の高齢化が進み、日本人の若者のいない教会であるが、ほとんどの司祭は、「このままの教会の姿がずっと続くだろう」と思っているようだ。司祭がそれで良しとするならば何も言うことはない。

 そんな中、シノドスと真剣に取り組み最終文書も、既に目を通された司祭がおられることも知っている。教会について、人間として、信徒の視線で考えを述べてくださる一司祭の存在に安心する私である。

 私とて、今の教会を支える世代、後に続く世代のいく末も、同じかもしれない、と思っている。これは、「教区の方針に合う信徒しか、教区には必要ない」、つまり「司教の意見に従う信徒しか要らない」(!)と私たちに言ったことから、”正しい見方”であろう。

 何を訴えても、聖職者と圧倒的な力の差があること、自分を守るだけの信徒の状態から、「愛がない教会」と実感してカトリック教会を離れた信徒。それでも神からは離れられない信徒が、私の周りで何人プロテスタント教会また正教会に行っていることか。

 私の知る限りでは、若い牧師のプロテスタント教会に、以前から若者と子供たちが多く集い和気あいあいの教会の姿がある。日本で正教会は珍しいが、司祭が唱える長い祈祷文に感動し、祈りと愛の深さを知らされるのを経験する。結局、男女の愛、家族の愛を知らなければ、人は愛を語れないだろう。頭で考えるだけの愛には、人間らしさも優しさもない。これからは、人間イエスの教会を求めて人が集まるに違いない、と私は思っている。

 「どこのカトリック教会もおばあさんばかりですね。たまにおじいさんもいますが」という、若い外国人信徒の感想を皆さんお聞きになったこたことがあるだろうか?私は彼に一票だ。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2024年12月31日