・愛ある船旅への幻想曲 (46) 待降節、黙想会の季節に思う…

    12月1日、待降節C年第1主日となった。

   各小教区では、恒例の待降節黙想会が開催されたことだろう。私は、黙想会の指導者(スピーカー)とテーマには興味津々である。今を生きる司祭司教方が語る教会の姿とご自身の思い、そして、聖書の解釈等々新しい導きを期待するのである。信徒として真面目に自分の宗教を考えているなら、聖職者からの黙想指導は必要である。

 最近では、自分よりも若い司祭方の指導を受ける信徒がほとんどだろう。時として以前の神学校の指導とは違うのでは⁉︎と、彼らから感じるのは私だけだろうか。

 先の衆議院選挙の時、いつも正直な辛口同級生は「今は、自分よりも若い政治家達が圧倒的に多いことを忘れてはいけないよ。年寄りが何言ってるんだと言われる年なんだよ、我々は。それを忘れてはダメだよ」と。「いやいや、私の気持ちは今も若いんですけど」とは言えず、そんなことを考える年なんだ、と改めて認識した次第である。教会でもそのことを肝に銘じて生きていかねばならないのかも知れない。

 待降節は、クリスマスを準備する期間である。スピーカーがどのようにイエスとマリアとヨセフを語るかによって黙想の中身も変わってくる。いろんなドラマを見たい好奇心旺盛の私であるが、何よりもイエスをもっともっと、知りたいのである。私自身、結構沢山イエスについての本を読んでいるとは思うのだが、未だに謎だらけのイエス。青年たちにも「イエスについて新しい発見があれば教えてね」と言い続けている。

 「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハネ福音書21章25節)

 イエスは教会の中心でありリーダーである。人間イエスはどのように生きたのか。なぜ短い生涯だったのか等々、私たちが教会で生きていくためにはイエスについて分かち合うことが永遠の課題ではないだろうか。今教会が抱えている問題も、真のイエスを知っているなら起こり得なかったのではないか。(教会に多々ある問題すら知らない信者は多いが)。

 「日本ではイエス・キリストの教えが受け入れられにくい」と言われている。しかし、その日本で、キリスト教を伝えることに尽力された聖職者や信徒の書籍も多々ある。『信者としての苦しみ』を大なり小なり経験した著者故に発表できたのだろう。

 そんな彼らには信仰を語り合う良き友と師と仰ぐ聖職者の存在があった。羨ましい限りである。なぜならば、今、ミサ中に毎週、司祭から福音説教が聞けない教会がある。言い換えれば、司祭として福音宣教ができないのかも知れない。司祭職で大事な働きは何?と考えてしまう。これでは今も使命を持って一生懸命働いている老司祭や、教会を正しく導こうとしておられる司祭方の面目が丸潰れであろう。

 偶然にも「カトリック・あい」に掲載中の教皇連続講話「聖霊について」⑯は「説教をする人」について、「説教によってキリストを宣べ伝えるために、聖霊の恵みを祈らなければなりません」と言われている。ホッとした私である。

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 最後に申し上げたいことがある。講話の中で「自分は結婚したかった。子供が欲しかった」と話される司祭方が多い。「だから⁈」と信徒の私は言いたいのである。。司祭の独身制にはいろいろな意味があるのも承知であるが、何よりも人間として自然に生きることがこれからの教会には必要、と私は思っている。「互いに愛し合いなさい」―この言葉の意味は深い。。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2024年12月5日