昨年秋から2会期にわたるシノダリティ(共働性)に関する世界代表司教会議(シノドス)第16回通常総会が終了した。今、87歳の教皇フランシスコの教会改革のための働きには、尊敬の念しかない。
「教会とは何か?」と問い続けている私にとって、教皇の回勅やメッセージは現代社会を知り、若々しく生きていらっしゃるからこその発想が私に伝わって来る。(私自身、決して若くはないが…)
10月24日に4回目の回勅『私たちを愛して下さった』を発表された。「イエス・キリストの心にある人間的で神的な愛」に関する思想の伝統と関連性をたどり、信仰の優しさ、奉仕の喜び、宣教の熱意を忘れないために、真の献身を新たにするよう呼びかけている、と“カトリックあい”に紹介されている。教皇のメッセージには『愛』がキーワードになっていることはカトリック教会として当然と言えよう。
*教皇フランシスコ「愛を具体的なものにするために」
「愛を具体的なものにするために、二つのことを覚えておきましょう。愛は言葉ではなく、行動だ、ということを。そして、愛においては、受け取ることよりも、与えることの方が大切だ、ということです。愛さない人はいつまでも受け取ろうとしますが、愛する人は与え尽くします」。
私の仲良しの信徒が「愛が分からない」と言う。彼女の祖父は、ここの教会の発足当初の信者である。敬虔な信者の家庭で育った幼児洗礼者である。私もコラムに『愛』を記すが、彼女は「難しい」と言う。次に「『平等』も分からない」と言う。もう1人の仲良し信徒は「教会に愛がない」と言う。彼はイタリア系アメリカ人の熱心なカトリック信者の家庭で育った幼児洗礼者である。成人洗礼の私などとは、全く違う家庭環境で育ち、真面目にカトリックの信仰を貫いてきた二人だからこそ今の言葉に悩む私に、「ちょうど2つ重なったのね」と、彼女は笑顔である。
私たちは、『教会への愛』があったから性別、年齢、国が違えども、教会について各々の意見を根気よく聞き、喧々諤々と分かち合ってきた。だからこそ今、愛への疑問と平等、教会に対する感情の表れが私にも分かるのだ。
ジョルジュ・ネラン司祭の『ネラン塾へようこそ』には、「愛そのものは存在しない。存在するのは、愛する人と愛される者だけである… 自由への道は愛である。自由を得るには束縛を一つひとつ解いていくこと、そしてそこに愛を見出すことである… 自由を求めるのなら愛しなさい」とある。
そして、哲学者、マルクス・ガブリエルの『分かり合えない他者と生きる』には、「人を愛することの中には、喧嘩も含まれています。どんな愛情関係にも、喧嘩は絶対につきものです… だから、正しく喧嘩する能力も養わなくてはなりません」とある。
愛は多様だ。カトリック信者として、愛を正しく学ぶためにも、自らが「愛する人と愛される者」となり、互いに束縛を喧嘩を正しく解き明かすことが必要だろう。このような一人一人の経験が、教会の愛を具体的なものにできるのではないだろうか。何よりもキリストは、愛する私たちからの愛を我慢強く待っていらっしゃる、と私は思っている。
(西の憂うるパヴァーヌ)