・愛ある船旅への幻想曲  (49)信徒の教会離れの理由を、教皇の言葉から考える

   愛猫がここに居ない今冬、寒さが身に染みた。今日、庭がうっすら雪化粧。積雪にもめげずに芽を出す黄水仙が、私に「生きる力」をアピールしている。そこに神がおられる…。

   先日、”おっちゃんバンド”、いや ”おじいちゃんバンド⁈”のライブに行った。ギタリストの一人(会社経営者)が50年ぶりのライブ出演だ。彼は同窓会では、幹事としてなくてはならない存在だ。Duoの相方(歯医者)も同級生。この二人のために、”元ガールズ”は招集され、「はい、喜んで」と参加した。”元ボーイズ”から食事の差し入れもあり、歌を聞きに来たのか、食事に来たのか分からない。

 青春時代の音楽をこんなにも愛し、学生時代からこの年齢になるまで大切に温めている”元ボーイズの歌に”元ガールズ”は用意したペンライトを控えめ(⁉)に振っている。老いて益々、和気あいあい、笑顔が絶えない仲間の姿がある。友に恵まれ、良い環境で生きていることに感謝である。

 私は、若者たちに「生きていくためには環境が大事」といつも話している。「類は友を呼ぶ」とのことわざがあるが、性格が正反対の友も必要である。互いに歩み寄るためのコミュニケーションを楽しめばよい。一人ひとりを創造された神は、人生を共に旅する相手もそれぞれに委ね、共に支え合うよう願われる。

 神の願いは全ての人間が幸せになることだ。時に自分の思いが相手に伝わらず、喧嘩になることもあるだろう。そんな辛く悲しい時にも、イエスは私たちを見守り、共に旅をしてくださっていることを忘れてはならない—激しい突風が起こり、波が船の中まで入り込み、船は水浸しになった。しかし、イエス自身は、艫の方で枕をして眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスを起こして、「先生、私たちが溺れ死んでも、かまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はや み、すっかり凪になった。(マルコによる福音書4章35~39節)

 先日、私は、未信者の若い女性から「カトリック教会は何を教えているのでしょうか?」と質問された。彼女が交際していた彼はカトリック信徒である。彼女から聞かされる彼と、私が知る彼とが全く違い、私は言葉を失った。若者たちには、本物のカトリック信者になってほしく、信者としてのよからぬ例も私は指摘してきたつもりだ。私が、偽善者を嫌いなことを彼も知っているはずなのだが。

 今、憐みの神が私たちに駆け寄って来てくださっていることを知る。そして同時に教皇フランシスコが様々な信者の姿に心を痛め、教会のありようを見直さねばならないと切に望んでいらっしゃることを思い知る。

 教皇フランシスコの言葉。「私たちは洋菓子屋に並べられたキリスト教徒になっています。きれいに飾られたケーキやお菓子みたいなキリスト者で、本物のキリスト教徒ではありません」(2013年、アシジ訪問時)

 

 未信者の教会への疑問、信徒の教会離れの理由を真剣に考える時が来ているのではないだろうか。ある女性の夫から教会に電話があり、挨拶もなしに「うちの家内を返しなさい!」と怒声を浴びせられた。当時の担当司祭は「教会は一度も彼女を呼んでいません!」と、はっきり答えた。「この司祭は、女性信徒をわざわざ教会に呼ぶことはありません」と、私も証言した。この時の年老いた夫の怒りの発言が、今もトラウマになっている私である。

 また、ある夫は子育て真っ最中の時、毎週日曜日には教会で一日中過ごし、家族サービスもしなかった。子供時代の父親への反感から、彼の妻と子供たち家族は教会に来たことがない。夫婦と家庭に関して、教会は反省せねばならないことが多い、と私は思っている。これからは、『イエスへの忠実さと心からの献身』を正しく受け取り、信者でない夫や妻、家族のために謙虚さを持って共に生きていくことの大切さを、信者は深く学ぶ必要があるのではないだろうか。

 教皇フランシスコの言葉。「自己中心的な教会は、イエスを自身の目的のために利用し、イエスを外に出さない。これは病気だ。二つの教会像がある。一つは福音を宣べ伝えるため、飛び出す教会だ。もう一つは社交界の教会だ。それは自身の世界に閉じこもり、自身のために生きる教会だ。それは魂の救済のために必要な教会の刷新や改革への希望の光を投げ捨ててしまっている」(2013年、枢機卿会議での枢機卿時代の発言)

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2025年2月28日