新学期が始まって一か月が過ぎようとしている。駅で小さな体に大きなランドセルを背負った女の子を見るたびに、同じ制服を着ていた我が家の娘たちの、幼かった頃を思い出す…。この春、私は多くの若者を新天地に送り出した。明るく、生き生きとしたカレッジライフ、ワーキングライフを送ってほしい。
「主の思いはとこしえに、その心の計らいは代々に立つ」(詩編33章11節)
つい先日、私は膝を痛めて病院に行った。駐車場で大手製薬会社研究室勤務だった化学者の友達と会った。彼の質問に「膝や肩を痛めると分かりきっているのに、してしまった」と言うと「年がいったら、そのように馬鹿なことを平気でしてしまうんですねぇ」と、私より年上の彼の言葉は、全くの正論であり妙に気が楽になった。「先生に『痛くて死ぬ』と言います」と私。「そう言ったらいいよ。『死んだら痛みも分かりませんからね』と言ってくれるよ」と彼。
そんな彼と私は以前、町内会長と女性部長として会議では喧々諤々とやり合い、当時は決していい関係ではなかった。彼は男性委員からの意見、私は女性委員からの意見を述べるわけだ。発表から男性が希望する行事は何であれ女性の助けが必要である。それなのに、発表内容に女性に敬意を払う表現がいつも欠けている。『言わずともこれは当然女性がすべきこと』と決めつけられては困るのである。ある時から、女性委員だけで会議の為にお茶の用意もしないことになり、男性委員と交代しながらのお茶当番になった。このことが腑に落ちない一部高齢男性の機嫌の悪さはあからさまだった。会長も内心困っていたに違いない。彼自身は、大学で講座を持ち、男女学生との交流もあった為、新しい感覚で町内会を運営したかったはずだ。
当時、だいたいの高齢男性委員は、男尊女卑を当然の如く前提にする発言であった。だが、私たち女性部には様々な職種のベテラン公務員女性が多く、男女共同参画を中心的立場で推進し活動の支援をなさっている方もおられ、この会議中の男性からの女性蔑視と受け取れる発言、企画も気の毒だが一つひとつ丁寧に理由付けで却下された。このことは、次期女性部の活動に大きな変化をもたらし、男女平等への意識をはっきり証明できた、と思っている。
とにかく、全ての住民が参加できる町内会活動でなければ意味がなく未来に繋がらないと私たちは思っていた。私たちの町内会は、世帯数600戸の会員を持つ大所帯である。私たちの時代は、女性部主催で様々な高齢者活動と秋の遠足を毎年開催してきたが、私たちが引退した数年後に女性部は廃部となった。これも時代の流れである。町内会が存続する為には過去にこだわらず新しい風を入れる事も必要だろう。
また、私は『女性を政界に送ろう』の勉強会に、親しい若手の女性新聞記者さんからの誘いを受けて参加した事がある。会長はじめ前に並んでいる役員の高齢女性の方々の顔は存じていた。これより以前に、私はある政党の男性の県連会長から「勉強しなさい」と、その政党の勉強会資料一式を渡されていた。私自身は、政治家になる気などさらさらなかったが、「知識を得る為にはいいだろう」との軽い気持ちで受け取った。『女性を…』の会には、某大手新聞社の編集局長や現女性議員の講演など毎回40人くらいの会員が参加し、熱心に耳を傾けて勉強していた。
その結果、政治家希望の一人がめでたく選挙に当選した。だが、一番喜ばねばならない会長の姿が、ある時から見えなくなった。原因は、夫が亡くなられ、彼女はそのショックから立ち直れない、という。私の気持ちは複雑だった。彼女の女性らしからぬ話しっぷりや「男性に負けてはならない。私たち女性が社会を変えていこう、エイエイオー…」との意気込みは、彼女を支える愛すべき夫が後ろにいたからだったのだ。ある意味安心したが、人間は、やはり男と女が互いに助け合って幸せに暮らさねば新しい試みを実現さすためのパワーも互いに持てず、良き未来をも想像できないのだな、と思った。
「人が独りでいるのは良くない。彼にふさわしい助け手を造ろう」(創世記2章18節)
地方のカトリック教会の会議しか私は知らないが、今まで私が経験してきた一般社会での会議とは随分距離を感じている。ベテラン信徒中心の会議は、全て教会に対して肯定的な意見で占められ、目新しい意見を言うと反対意見と受け取られ眉間にシワを寄せられる。いつも現状維持がお約束の議事録であり、司祭も信徒もそれでいいのである。教会共同体にとって幸福にミサに与り、集える場が“今”あることで信徒として安全なのである。これでは、教会のある扉は閉ざされたままとなり、爽やかな風さえも入らないのではないか、と。歳とともに変わっていくのが人間、と心得る、共同体にとって出来の悪い私の、要らぬ心配である。
「あなたがたは、長らく教師をしていながら、神の言葉の初歩をもう一度誰かに教えてもらわねばならず、また、固い食物ではなく、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者は皆、幼い子ですから、義の言葉を味わったことがありません。固い食物は、習慣によって善悪を見分ける感覚を鍛えられた、大人のためのものです」(ヘブライ人への手紙5章12~14節)
(西の憂うるパヴァーヌ)