・受刑者とともに捧げるミサ(「菊地大司教の日記」より)

2021年10月22日 (金)受刑者とともに捧げるミサ

  このところ恒例となってきた、NPO法人マザーハウス主催(代表:五十嵐弘志 さん)の「受刑者とともに捧げるミサ」が今年も企画され、10月16日(土)の午後に、聖イグナチオ・麹町教会で行われました。

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   マザーハウスのホームページには、次のように解説が掲載されています。

 「教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年」中の2016年11月6日(日)を、「受刑者の聖年」と定め、受刑者やその家族のため、そして刑務官や教誨師を含め、刑務所の内外で受刑者の支援に携わっているすべての人・機関のために祈るよう呼びかけました。理事長の五十嵐は、社会の人々と刑務所にいる受刑者が共に祈ることで孤独と犯罪から解放されると考え、菊地功大司教に受刑者と共に捧げるミサの司式を要請し、2018年10月に菊地功大司教とローマ教皇庁大使館の大使チェノットゥ大司教の共同司式にてミサを開催し、毎年、実施しています」

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   同法人のホームページには、当日のミサの様子のビデオも掲載されています。この時期ですので感染症対策のために、残念ながら      大勢の方に参加していただくことは出来ませんでしたが、当日の模様は配信され、多くの方が祈りの時をともにしてくださいました。

 

      以下、当日、用意していった説教の原稿ですが、上述のビデオを見ていただくとおわかりのように、ほとんど原稿通りに話してはおりませんでした。

( 受刑者とともに捧げるミサ   2021年10月16日 聖イグナチオ・麹町教会)

   昨年初めからすでに2年近く続いている感染症による困難な状況は、地球的規模で、人類社会に大きな影響を与えています。感染症対策のため、各国の政府によって取られたさまざまな政策によって、経済が悪化し、雇用関係が不安定になっている国も少なくありません。

   もちろん人類にとって未知の感染症ですから、誰ひとりとしてどのように対処するべきなのかについて正解を知っている人はおらず、また感染症の実際の健康への影響も、専門家の間にもさまざまな議論があります。わたしたちも目に見えないウイルスが相手ですから、一体どう対処したら良いのかが判然とせず、この2年近くは、本当に暗闇の中を手探りで歩んでいるような気持ちに包まれています。

  教会も大きな影響を受けています。教会は定期的に大勢の人が集まることで成り立ってきましたが、残念ながらそのこと自体を制限しなくてはならなくなり、活動が大きく制約されています。

  教皇フランシスコは、昨年、一時中断していた一般謁見を2020年9月2日に再開し、その日は少数の会衆を教皇宮殿の中庭に入れて、こう話されています。

  「このパンデミックは、わたしたちが頼り合っていることを浮き彫りにしました。わたしたちは皆、良くも悪くも、互いに結びついています。この危機から、以前よりよい状態で脱するためには、ともに協力しなければなりません」

   教皇様は、誰ひとり排除されない社会を実現し、すべてのいのちがその尊厳を守られるようにと働きかけてきましたが、特にこの感染症の困難に襲われてからは、地球的規模での連帯の必要性を強調されてきました。

   しかし残念ながら、連帯は実現せず、かえって孤立と孤独が激しくすすみ、いのちが危機に直面しています。

   今年2021年の復活祭にあたってのメッセージで、教皇様は次のように述べられました。

  「パンデミックはいまも猛威をふるっています。社会的、経済的な危機はいまだに深刻な状態にあり、とくに貧しい人に大きな影響を及ぼしています。それにもかかわらず、武力紛争と軍備拡張はとどまることを知りません。今、こんなことがあっていいはずがありません。」

  その上で教皇様は、「十字架にかけられ、復活された主は、仕事を失った人や、経済的な苦境に陥っても社会から適切な保護を受けられない人の心の支えです。」と呼びかけられます。今わたしたちの社会は、不安の暗闇の中に置き去りにされている恐怖から、他者に対する配慮をする余裕を心から奪い、不寛容な心は利己的になり、自分を守ることにばかり集中して、助けを必要として叫びを上げている人の存在を見えないものにしています。

  教皇様は「福音の喜び」で、教会のあるべき姿を、「出向いていく教会」であるとされました。自分の安全安心を守ろうとするのではなく、常に挑戦し続ける姿勢を教会に求めました。失敗を恐れずに、常に挑戦を続ける教会です。しかもその挑戦は、困難に直面し、誰かの助けを必要としている人のところへ駆けつける挑戦です。

  そして「福音の喜び」には、「イエスは弟子たちに、排他的な集団を作るようには言いませんでした」という言葉もあります。その上で教皇は、「教会は無償のあわれみの場でなければなりません。すべての人が受け入れられ、愛され、ゆるされ、福音に従うよい生活を送るよう励まされると感じられる場でなければならないのです」と指摘します。(114)

  今、教会は、この困難な現実の中で、命を守るために、積極的に出向いていき、助けを必要とする人たちとともに歩んでいかなくてはなりません。

  ちょうど今、教皇様は2023年の秋に開催される世界代表者司教会議の準備を、世界中の教会で、明日から始めるようにと指示をされています。明日、10月17日のミサの中で、それぞれの地におけるシノドスのプロセスが始まります。

   シノドスという言葉は、会議の名称ではなくて、そもそも「ともに歩む」事を意味しており、教皇様はまさしく教会が、「ともに歩む」教会であるようにと願っておられます。誰ひとり忘れられることのないように、神から愛されて命を与えられたわたしたちは、司教も、司祭も、修道者も信徒も、ともに支え合い、助け合いながら、互いの声に耳を傾けあい、歩んでいきたいと思います。

  わたしたちの歩みは、暗闇を彷徨う不確実な歩みではなく、わたしたちと共にいてくださる主とともに前進する歩みであり、神の民を導かれる聖霊の声に耳を傾けながらの前進です。

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  マタイ福音は、「求めなさい。そうすれば与えられる」と語るイエスの言葉を記しています。イエスはわたしたちに、求めること、探すこと、門をたたくことを求めます。問題は、一体わたしたちは何を求め、何を探し、どの門をたたくのかであります。

   同じ福音の記述の続きには、こう記されています。

  「あなた方の天の父は、求める者に良いものをくださるに違いない」

   すなわち、わたしたちは、自分がそうあってほしいと願うことを求めるのではなく、神が良しとされることを求めるときに、与えられるのです。神が望まれる命の生き方を実現しようと求め、探し、門をたたくときに、初めて神は答えてくださるのであって、わたしたちの自己実現や自己満足のために、欲望を満たす何かを探し求めても、それは与えられません。

  ですからわたしたちは、神が良しとされる生き方とは一体どのような生き方であるのか、神が良しとして定める道はどこにあるのか、神の国の門はどの門であるのか、つねに見極めながら、より良い方向へと進んでいかなくてはなりません。だからこそわたしたちは、この道を一緒になって歩むのです。その「一緒」には、神が良しとして創造されたすべてのいのちの尊厳が含まれています。排除されてもよい人は誰ひとりいません。互いに支え合いながら、わたしたちは一緒になって道を見いだし、歩んでいきたいと思います。

  今日このミサを捧げながら、過去を顧み許しを求めている人に善なる道が示されるように、祈りたいと思います。同時に犯罪の被害に遭われた方々の、心と体のいやしのために、祈ります。さらには、加害者のご家族、また被害者のご家族の方々の、いやしと生きる希望のために、祈りたいと思います。

  そして、すべての人が神の望まれる道を歩むことができるように、受刑者の方々に、また犯罪の被害者の方々に支援の手を差し伸べるすべての人のために、心から祈りたいと思います。キリストに従うわたしたち一人ひとりが、神が望まれるより良い道を、互いに支え合って、歩み続けることが出来ますように。

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2021年10月23日