・共に歩む信仰に向けて ② 「召命」のために祈る前になすべきことは…

 

*なぜ召命が減っているのか?

 教皇の2月の祈りの意向は、「司祭職や修道生活の召命のために」だそうです。

 日本も韓国も召命が減少する一方、ベトナムなど新興国では召命が続いています。先進諸国での召命の減少は、「経済格差の拡大、政治の不寛容、個人主義の増大、少子高齢化」が影響している、と言われていますが、もっと重要なことは、日本や欧米諸国のような民主制の国家が与える「人間の尊厳」や「基本的人権」を、カトリック教会が軽視していることではないかと思います。

 「『民主主義を叫ぶ前に、神の意思を求めるべきだ』とか『シノダリティ(共働性)とは、議会制民主主義を教会に持ち込むことではありません』などと言う司教さんたちがおられますが、『民主主義の価値とカトリックの教えは両立しない』と刷り込まれているからではありませんか」と嘆く信者の方もおられます。私も同意見で、両立させない限り、召命はおろかカトリック教会は存続できないでしょう。

*現代民主主義国家と身分制的な教会の乖離

 召命が減少しているのは、民主制国家のカトリック教会です。専制国家や独裁政権の国家では、個人の人権がカトリック教会以上に制限されているため、精神的な自由を求めてカトリック教会に加入したり召命の道を選ぶこともあるでしょう。

 日本は戦後は民主主義国家に変わってきました。現在、教会に来ている人は70代、80代(1955年以前に生まれた人たち)が大部分ですが、彼らは古い価値観や身分制的な感覚が残っていた時代を生きてきて、カトリック教会のヒエラルキーや司祭と信徒の身分な区別を違和感なく受け入れる方も少なくありません。「神父様」という呼び方も不自然ではないようです。

 しかし、徐々に民主主義が定着し、学校でも教師と生徒の区別や上下感がないほどになっている今、良くも悪くも民主的にならなければ、カトリック教会の教えも教会観も受け入れられる可能性は乏しいと思います。

*民主化されない教会は、人類の歴史の進歩から取り残される

 吉田徹・同志社大教授(比較政治学)によると、世界で「民主国家」と「専制国家」のどちらが多いかというと、民主国家・地域は世界の半数しかない。欧米を見ても民主主義が危機にあることは、事実です。民主国家でも極右政党が躍進したり、独裁的、権威主義的になったりする現象が起きています。しかし吉田教授は「人類の歴史は、民主化の歴史です。それが他の動物と違う最たるものではないでしょうか。自分の運命は自分で決めたい、コントロールしたいという根本的な欲求です。人が人であることを突き詰めると、民主主義という政治体制が望ましいと思うのですが」とも言っておられます。

 「人類の歴史は民主化の歴史です」という言葉は重要だと思います。民主主義は個人の尊厳、個人の自主性を主張するものと言えます。国民一人一人が「自由、平等、相互愛」を生きれるようにすること、そのことに寄与しないどころかヒエラルキーを当然とする教会に、誰が喜んで来るでしょうか。このままでは、日本や欧米など民主国家にあるカトリック教会は信徒も司祭の減少は加速するかもしれません。

*インカルチュレーションの必要

 ドイツのシノドスの道が示したように、カトリック教会は民主主義社会にインカルチュレーション(文化内在化。文化の中に入っていくこと、歩調を合わせること)していかなければなりません。前にも紹介したドイツの「シノドスの道」、2022年の春と秋2回のシノドス集会で現行の教会法典とは別に、全信者の基本的権利を明記した「教会基本法 a Lex Ecclesiae Fundamentalis」を作るべきだ、ということが議決されました。

 聖職者だけでなく、信徒も等しく自由で平等な権利を持っていることをまず第一に明記し、すべての人がそれぞれのカリスマをもって宣教の使命を果たせるようになるために自由な発言権を持ち、キリスト教のメッセージについての共通理解を持ち、教会の奉仕職(役務)にジェンダーの違いや既婚・独身の違いを超えて参加できるように規定すること。

 このような基本法が地方教会レベルでも普遍教会レベルでも必要だと思います。その下に現行の教会法典を位置づけるくらいのことをしないと、民主主義社会に生きる人間にはカトリック教会は受け入れられないだろうと思います。

*民主主義と共存してシノダルな実践を

 ドイツのシノドスの道が構想する「教会基本法」と教会法典の関係は、例えて言えば日本の憲法と諸法律の関係に近いと言えます。近代の憲法は国民の権利や自由を守り、為政者を縛るものです。その下で国民は刑法や民法などの諸法律に従って生きています。同様に、教会基本法によって教会内の個人の権利と自由を守った上で、教会法典で全信者のあり方をシノダルに規定し直すのです。何が神の意思なのかをお互いに問いながら教会のあり方を決めていく。司教や司祭が特別神に近いわけではありません。そうすれば民主主義とカトリック教会は両立・共存できるはずです。

*教会は消滅の危機に

 最近は「聖年」ということばかりが多くの司教サイドから発信され、2023年、2024年と開かれた「シノダリティ(共働性」のあり方をテーマにした世界代表司教会議(シノドス)通常総会の最終文書は、「カトリック・あい」が全文試訳を出して2か月たった今も、司教団から翻訳は出されず、そればかりかこのシノドスそのものが、早くも忘れ去られようとしている感があります。

 シノダルな実践を伴わない「召命のため祈り」は空しく響きます。そうした中で、最近、ある女子修道院は一年かけて閉鎖することが決まったと聞きます。閉鎖予定の修道院は、あちこちにあるのではないでしょうか。

 私は最近、一人の女性信徒(80代半ば)の葬儀をしました。その方には娘がいて幼児洗礼は受けているが教会からは離れていた。葬儀担当のある信徒が、その娘さんに「告解をして、ご聖体をいただけますよ」と誘ったのですが、娘さんは丁重に断っておられました。お孫さんたちも洗礼は受けていませんから、親族は誰も聖体拝領をしません。母親の信仰を尊重して、葬儀ミサを教会に頼んだ、ということでしょう。このようにカトリック信仰は広がっていかないのです。福音中心に、シノダルに改革されることを望みます。

*引用:毎日新聞連載 デモクラシーズ 世界の人類では少数派「それでも民主主義がいい」のはなぜか

*ドイツの「教会基本法」については 、www.synodalerweg.de

                      (西方の一司祭)

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2025年1月30日