教皇フランシスコの帰天。冥福を祈ります。(今月のこのコラム原稿は死去される前に書いたものです。)
*教皇はキリストの代理者になった・・
このコラム2月28日付け「共に歩む信仰に向けて③キリシタン史と現代その1&その2」で、伴天連の政治的な動きが問題であったと述べました。では、そのおおもとの原因はどこにあったのかというと教皇権、制度としての教会であると言わざるを得ないと思います。
15世紀末、教皇アレキサンデル6世は発見される土地(新大陸)をスペインとポルトガルとに分かつのに、おおよそ以下の教義を用いたと言われます。「地上の国を統一するのは、王のなかの王であるキリストである。キリストの中にいっさいの至上権はある。キリストは教皇をその代理人とした。教皇はキリストの全権力を、世俗の権力さえも受け継いだ。不信心な君主は単なる占領者にすぎない。キリスト教徒の国王は、教皇の認可を得てその代理として統治しているにすぎない。国王は教会の聖務の代行者として、教会のために宗教的職分を果たしているのである」(マルティモールによる)。教皇権の具体
化が伴天連たちの政治的動きとなったのでした。
*王と教皇の相互依存・・
教会も変動する世俗社会のただ中にありますから外敵からの攻撃や侵入などに対処するために強大な王たちの支援や保護を必要としました。教皇権と世俗の王や皇帝の権力との相互依存の社会です。フランク王のカール大帝(768~814)は自らを「信仰の擁護者にして教会の支配者」と自認していました。「皇帝が教皇からの支援を必要としたのとまったく同じくらい、教皇権も皇帝からの支援を必要とした」のです。
その後、ドイツ国王オットー1世はカール大帝の居所だったアーヘンの大聖堂で大司教から国王としての権標(剣、マント、笏など)と聖油の塗油を受け、黄金の冠を被せられます。オットーはローマの政
情不安で苦しむ教皇ヨハネ12世の救援要請に応えたので、962年、サン・ピエトロ教会で教皇から皇帝として戴冠されます。こうしてドイツ国王はイタリアの北部と中部の支配という「イタリア政策」に関わることになります。
*3つの事件と教皇権・・
以下、3つの事件を取り上げ、教皇権がどのように表れたかを見てみます。
①カノッサ事件
高校の世界史でも扱う事件です。1075年、教皇グレゴリウス7世はドイツ国王ハインリヒ4世がイタリアの一部の司教たちの叙任を強行したことに警告を発し、教皇の命令に無条件で従うよう求めます。ハインリヒの行為は、ドイツ王はローマ帝国の後継者としてイタリアの支配に関わっていたためになされたことでした。
ハインリヒは教会会議を開き、26名の大司教や司教が出席。彼らはグレゴリウスを教皇として認めず、教皇に服従の解除を通告します。それに対してグレゴリウスはハインリヒによる統治の停止と破門を宣
言し、全キリスト教徒をハインリヒに対する忠誠義務から解放します。
ハインリヒは再び教会会議を開催しようとしますが、今度は出席する司教はほとんどいない。司教たちは教皇を恐れたのです。また反国王派の諸侯たちも会議を開いて、ハインリヒが一年以内に破門から解かれなければハインリヒを廃位すると宣言します。窮地に陥ったハインリヒは教皇に謝罪することを決めて、カノッサ城に滞在する教皇に赦しを請い、雪の城門で3日間裸足のまま祈りと断食をして、やっと破門を解かれたという事件です。
いちおう、教皇の勝利ではありますが、カノッサに赴く前、トリノに到着したとき、北イタリアの司教と諸侯たちは、ハインリヒを支えるために大軍を集めていました。グレゴリウス教皇は武力行使を畏れてカノッサのマチルダの居城に避難していました。
またカノッサ事件には後日談があります。反国王派諸侯によって対立国王になったルードルフとの戦いでハインリヒが敗れたことで教皇は再びハインリヒを破門にし、ルードルフを正式な国王と認めます。これに対してハインリヒは教会会議を開き、対立教皇クレメンス3世を擁立します。ハインリヒとルードルフの両陣営の戦いが何度かありますが、ルードルフの死によって、ハインリヒはイタリアに進軍し、ローマに入って対立教皇クレメンス3世から皇帝戴冠を得ました。
グレゴリウス7世はローマ近郊サレルノに逃れ、そこで憤死します。さらにハインリヒは帝国会議を開催し、多くの大司教や司教、世俗諸侯が出席し、そこでグレゴリウス派の司教の罷免が宣言されました。
事件の前、1059年、教皇ニコラウス2世は、教皇選出は世俗権力を排するため、枢機卿団の相互選挙(コンクラーベ)によるとの教皇令を出します。これ自体、当時枢機卿だったグレゴリウス7世(ヒルデブランド)たちの意図によるものでした。グレゴリウス7世は『教皇訓令書(Dictatus Papae)』の中で、ローマ教皇のみが正しく普遍的であること、彼のみが司教を罷免することも復帰させることもできること、彼のみが皇帝の標徴を用いることができること、すべての君主は教皇の足に口づけすべきこと、彼は諸皇帝を廃位することができるとして、教皇の権威・権力が不可侵・普遍・不可謬であり、皇帝の権威・権力よりも上であること、教皇を頂点とした中央集権、社会全体のヒエラルキーを構想していました。
グレゴリウス7世が失敗した理由の一つは、教皇が利用できる行政組織が未発達であったからだと教会史家バラクロウは言っています。従って1088年即位のウルバヌス2世の頃から教皇庁が組織化されますし、教会法も発展していきます。教皇庁の成立によってカトリック教会は「聖なる人々の集団が信徒を率いる組織」ではなく「法律家集団が信徒を統治する組織」へ変わったのだと中世史家の藤崎衛氏は言っています。
この事件から、教皇権が王たちだけでなく司教たちからも全面的に支持されていたわけではないことがわかります。教皇は自分の至高権、普遍かつ不可謬な権威を主張していますが、全面的に承認されていたわけではないのです。
②シチリアの晩鐘(シシリアン・ヴェスパー)事件
この事件も高校の参考書『詳説世界史研究』(山川出版社の脚注に記載されています。1282年3月シチリアの首都パレルモでシチリア島人がフランス人数千人を殺戮する暴動・反乱が起こりました。直接の原因は、晩の祈りの時刻に、一人のフランス人兵士がシチリア人女性にセクハラをしたので、それに怒ったシチリア人たちがその兵士だけでなくフランス人を手当たり次第見つけ出しては殺していきました。十数年前からシチリア島民はフランスのシャルル・ダンジューの過酷な政治によって支配されていたので、その恨みもありました。しかしそれだけではなく、当時シチリアの諸都市がドイツや北イタリア
の都市のような自治を要求していました。
時の教皇マルチン4世はシャルルによって立てられた傀儡にすぎなかったので、全島民に破門を宣告しますが、島民の働きもあって結局シャルルの支配は終わり、アラゴン王ペドロ3世がシチリアを治めるようになります。
当時、地中海世界はそれぞれの国家や都市が競い合い、利害関係は複雑でしたが、おおざっぱに分けると、教皇側にはフランスとシャルルのアンジュ―家、イタリアの教皇派諸都市、ヴェニス、南イタリアのナポリなど。反教皇側にはシチリアの諸都市、イタリアの皇帝派諸都市(ペルージア、スポレート、アッシジ)、ジェノア共和国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、神聖ローマ帝国(ドイツ)、アラゴン王国(アラゴン、カタロニア、ヴァレンシア)、アフリカの一部イスラム人など。そのような中でこの事件は起きたのです。
もともと西欧中世世界は理念的にはローマ教皇を中心として一つになるはずでしたが、徐々に各々の国や都市は自分の利益を図るようになっていき、また教皇の側も自己の地位と存続を優先して行動するようになったために、このように教皇の考えに従わない反教皇派の国々や都市ができ、しかも彼らはイスラム勢力とも同盟を結ぶという、非キリスト教的なことまでしました。つまり教皇を中心にして一つであるべき西欧キリスト教世界の崩壊を露呈していたのです。また、国際政治の比重が高まる中で、教皇の存在は霊的な指導者ではなく政治的な要素の一つ、一勢力に過ぎないことを、「シチリアの晩鐘事件」は示しています。
さらにシチリアの晩鐘事件の示すこと。この事件に限らず、教皇および教皇庁は一人の権力者や国に過剰に権力が集中して教皇に反抗することを防ぐため、また諸勢力が互いに争い合って仲裁役に当たる教皇の存在を皆が必要とするように、政治的に介入していきました。霊的な使命をもそのために利用したことが、結局は教皇の権威の失墜につながっていきました。聖戦という名目で十字軍を色んな国々に派遣させたこともその一つです。これでは教皇権は「神からのもの」と思える
はずがありません。
③アナーニ事件
この事件についても高校で学びます。教皇ボニファティウス8世は勅書 UnamSanctam (1302年)で二つの剣の思想(ルカ22:38参照)、すなわち霊的剣と現世的剣の両方とも教会の権力の中にあり、俗界の権威者は精神界の権威者に従わなければならない、そしてすべての権威は教会に、そしてその頭である教皇に帰される。すべての人は救いのために教皇に対する服従が絶対必要であるとして教皇の絶対性を主張しました。
そして教皇庁はフランス国内の全教会の聖職禄に課税し、国王フィリップ4世も対イギリス戦争のため聖職者十分の一税を課したことで教皇と対立します。国王は全国三部会を開いてその支持を得、聖職者と国王は共同戦線を張り、また教皇を裁くための公会議の召集を要求します。そして1303年国王の密使たちはアナーニで教皇を急襲して捕え監禁します。教皇は捕えられる前に関係者を破門していましたが、その効果もなく屈辱の内に死去します。
その後、フィリップ4世は新しい教皇に圧力を加え、先の勅書の撤回とアナーニ事件関係者の破門解除を認めさせました。また新教皇クレメンス5世は自らの住まいを1309年南フランスのアヴィニョンにします。ローマが政情不安であること、アヴィニョンが教皇に忠実なナポリ王国の治下にあったからです。以後、アヴィニョン教皇時代となり、いわゆる「教皇のバビロン捕囚」が67年間続くことになります。また1378年、ローマとアヴィニョンに二人の教皇が立ち、その後約40年間続く教会大分裂(シスマ)となりました。
教会分裂によって、西欧は二つの陣営に分かれました。神聖ローマ皇帝、イギリス国王、 フランドルおよび多数のイタリア都市がローマのウルバヌス6世教皇の側に。フランス国王、サヴォワ公国、スコットランド、神聖ローマ帝国の幾つかの地方、そしてほどなくしてアラゴンとカスティラがクレメンス7世(対立教皇)の側に。教皇の権威は失墜しました。
*両剣の解釈は3者によって違う・・・
ローマ司教がパパ(教皇)の称号・肩書きで教令を発したのはシリキウス(在位384~399)であったと言われますが、それまでは幾つかの教会でパパの称号は用いられていました。のちにローマ司教に限定されていきますが。
5世紀の教皇ゲラシウス1世(在位492~496)は「それぞれ独立した聖俗二つの権力が世界を支配する」と述べ、世俗権力からの自立を主張しました。のちに両剣論と呼ばれる理論のもとになったものですが、先述したようにボニファティウス8世は世俗の剣も聖なる剣(教皇権)に従わなければならないとし、教皇権の絶対性を読み込んでいます。
カノッサ事件の後、ドイツ王フリードリヒ1世(バルバロッサ)は教皇ハドリアヌスの馬の鐙(あぶみ)を支えて、つまり封建制的に教皇に臣下の礼を取って、ローマ帝国の皇帝戴冠を得ました(1155年)。しかしながらバルバロッサの思い、両剣の解釈は、世俗の剣と聖なる剣はともに神より発している。各剣は神により直接、その帯剣者に与えられたのであるから、政剣を与えられた皇帝は教剣を帯びる教皇と同等であるとし、帝国そのものの神的起源を強調しました。
したがって、教皇には世俗権力に介入する権利は元々ないのであり、皇帝は直接神から世俗の統治を委ねられている、帝国は神に直接、聖別されているとし、自らの帝国を「神聖帝国」と命名します。のちに「神聖ローマ帝国」の名称に変わる帝国です。帝国が「神聖な」と冠せられるのは俗権が教皇の神権政治を断固として斥ける決意表明であったわけです。教皇の政治への介入を断固拒否していますし、教皇の権威は認められてはいないのです。
*まとめ
教皇自身は聖俗両界における至高の権力を持っていると主張しましたが、以上見てきたように、人々はそのような信仰を持っていたとは言い難いのです。教皇も一人の人間に過ぎず、決して不偏不党にはなれなかったし、自分の利益や自分の生命の安全を優先して行動して逃げたり隠れたりしています。Aを聖別して王としても、その人がBに戦争で敗れるとAを破門して、Bを王とするなど、自分が生き延びるため行動していることが明らかです。判断の基準は神なのか何なのか、わからない。
こんな次第では判断を教皇に仰ぐことはないでしょう。何よりも「あなた方の中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(マルコ10:43)とのイエスの言葉。教皇がしてきたことは、その真逆ではなかったかと思います。
今回のシノドスで、教皇フランシスコは第2千年期の教会はヒエラルキー中心であったが、第3千年期はシノダルな教会になることが神の意向であるとはっきり述べたことは重要な指摘です。
(参考資料 *堀米庸三『西洋中世世界の崩壊』(岩波書店)、スティーブン・ランシマン「シチリアの晩祷」(太陽出版)、藤沢房俊『地中海の十字路=シチリアの歴史』(講談社選書)、マルティモール『ガリカニスム』(白水社クセジュ文庫)、藤崎衛『ローマ教皇は、なぜ特別な存在なのか』(NHK出版)、G.バラクロウ「中世教皇史」(八坂書房)、山本文彦『神聖ローマ帝国』(中公新書)、菊池良生『神聖ローマ帝国』(講談社)など参照。
(西方の一司祭)