・Sr.岡のマリアの風 ㉕聖週間の始めに・・黙想と十字架の道行きのために

本部修道院、聖週間の始めに-「賛美の集い」のための覚書―
[祭壇まで行列。各々、四旬節に書いた「手紙」を祭壇前の籠に入れる]
[始めの祈り](祭壇の前で)
主イエスよ、 あなたは、旧約の預言者たちが預言したように、ろばに乗って、ご自分の都、聖なるエルサレムに、王として、メシア・救い主としてお入りになります。
あなたが「王」である、とは、 仕える者であることです。
あなたが「王」である、とは、 わたしたちを、わたしを愛して 命までも捧げることです。
わたしたちの、固く冷たい心が、この聖なる一週間、あなたの一つ一つのしぐさ、言葉、まなざしに触れて、生きた、肉の心に変えられますように。
アーメン

[黙想のために]
今年、2018年は、若者たちについてのシノドス(世界司教会議)が開かれます。パパ・フランシスコは、その前に、若者たち自身による準備の集いを、バチカンで開催しました。

 若者たち自身が、自分たちに出来ることを、自分たちの手で、共に行うことによって、教会共同体に新たな力を与えることが出来るように、と。
このパパの思いは、若者たちだけでなく、教会を形づくるすべての信徒、わたしたちにも向けられています。自分たちに出来ることを、自分たちの手で、共に行うことによって、教会共同体を、すこしでも前に進ませることが出来るように。同じ、一つの目的に向かって。「散らされた神の子ら」を集めるために、十字架に「上げられ」、ご自分の命を捧げ尽くした主に従いながら。

 教皇は、毎年、ローマのコロセウム(円形競技場)で、十字架の道行を司式します。その時に使うテキストを、パパは、今年、若者たち自身が創るように提案し、それは、16歳から27歳までの14人の若者たち(そのうちの9人は高校生)によって、熱意をもって受け入れられました。

 「見ること-出会うこと-祈ること」を鍵として、14人の若者たちは、一つずつの留の黙想を、自分の言葉にしていきました。
わたしたちも、今、自分の心を一番打つ「留」の場面に留まり、聖週間の間、自分の黙想を言葉にして表していけるなら、わたしがイエスとより深く出会う助けになると思います。

*この「十字架の道行」のパンフレット(バチカンHPより)の導入部分を、皆さんと分かち合いたいと思います。[以下、イタリア語より試訳]

 今年の「十字架の道行」の儀式の、14留の黙想は、16歳から27歳の間の、14人の若者たちによって作られました ですから、二つの主要な新しさがあります。第一の新しさは、過去の著作から取られたものではないこと、書いた人たちの年齢-若者、青年(彼らの中の9人は、Roma Pilo Albertelliの高校生)に関連して。第二の新しさは、この作業の「合唱性」―たくさんのトーンや響きの異なる声のシンフォニーであること-。そこには、名無しの「若者たち」ではなく、ヴァレリオ、マリア、マルゲリタ、フランチェスコ、キアラ、グレタ…がいます。

 彼らは、彼らの年齢に典型的な熱意をもって、若い世代に捧げられた2018年の中で、パパ・フランシスコから提案されたこのチャレンジ(挑戦)を受け入れました。

 彼らは机の周りに集まって、四つの福音によるキリストの受難のテキストを読みました。それから、「十字架の道行」の場面の前に自分たちを置き、その場面を「見つめました」。朗読の後、必要な間をとりながら、若者たちの一人ひとりは、どの「場面」が特に心を打ったかを表現しました。このようにして、より単純に自然に、一つひとつの留がふりわけられました。
鍵となる三つの言葉、三つの動詞が、これらのテキストの展開を印しました:先ず、すでにふれたように、見ること、そして、出会うこと、最後に 祈ること若者は、見ることを望みます。世界を見る、すべてを見る。

 「聖金曜日」の場面は、その残酷さをもっても強烈です:それを見ることは、反感を引き起こすことも出来るし、または、あわれみ(いつくしみ)、ゆえに、出会いに行くよう促すことも出来ます。まさに、イエスが福音の中で、毎日-そしてこの日、最後の日にも-行ったように。イエスは、ピラトに出会い、ヘロデに

 出会い、祭司たち、番人たち、ご自分の母、キレネ人、エルサレムの女性たち、2人の強盗―彼の歩みの最後の同伴者たち-に出会います
若い時、毎日が、誰かに出会う機会となり、一つひとつの出会いは、新しく、驚きに満ちています。もはや誰にも会いたくなくなるとき、人は年を取ります。信頼をもって心を開くことよ、人を閉じ込める恐れが勝つ時、人は年を取ります。変わることの恐れ。なぜなら、出会うことは変わることを求めるから、新しい目をもって、再び歩みを始める準備をすることを求めるから。

 最後に、見ることと、出会うことは、祈ることへと促す。なぜなら、見ること、出会うことは、いつくしみ(あわれみ)を生みだすから―たとえ、あわれみに欠けているような世界においても、人々の、無分別な(良識を欠いた)怒り、卑劣な行為、怠慢を放っておくような、今日のような日の中でも-。
もし、イエスに心から従うなら-たとえ、十字架の神秘的な歩みを通してでも-、その時、勇気と信頼が再び生まれます。そして、見た後、出会いに開かれた後、わたしたちは祈る恵みを体験するでしょう。もはや一人だけではなく、共に祈る恵みを。

「道行」の14の留の黙想のために、若者たちが選んだ聖書の箇所は、皆さんに配布したプリントの通りです。[表参照]
第一留:イエスは死を宣告される V:ルカによる福音(23 22 25
第二留:イエス、十字架を負わされる(Maria Tagliaferri e Margherita Di Marco作:マルコによる福音(8 34 35
第三留:イエス、初めて倒れる(Caterina Benincasa作):預言者イザヤの書 53 4
第四留:イエス、母と出会う(Agnese Brunetti作):ルカによる福音(2 34 35
第五留:キレネ人シモンが、イエスを助け、十字架を運ぶ(Chiara Mancini作):ルカによる福音(23 26
第六留:ヴェロニカがイエスのみ顔をぬぐう(Cecilia Nardini作):預言者イザヤの書(53 2 3
第七留:イエス、二度目に倒れる(Francesco Porceddu作):預言者イザヤの書(53 8 10
第八留:イエス、エルサレムの女性たちと出会う(Sofia Russo作):ルカによる福音(23 27 31
第九留:イエス、三度目に倒れる(Chiara Bartolucci作):預言者イザヤの書(53 5 6
第十留:イエス、衣をはぎ取られる(Greta Giglio作):ヨハネによる福音(19 23
第十一留:イエス、十字架にくぎ付けにされる(Greta Sandri作):ルカによる福音(23 33 34
第十二留:イエス、十字架上で息を引き取る(Dante Monda作):ルカによる福音(23 44 47
第十三留:イエス、十字架から降ろされる(Flavia De Angelis作:ヨハネによる福音(19 38 40
第十四留:イエス、墓に置かれる(Marta Croppo作):ヨハネによる福音(19 41 42

 今日、ここで、Valerio De Felice作、第一留の黙想を聞きたいと思います。
[試訳]
第一留:イエスは死を宣告される
ルカによる福音(23 22 25

 ピラトは、三度彼らに向かって言った、「いったい、この男がどんな悪事を働いたというのか。この男には、死に値する罪は何も認められなかった。だから懲らしめたうえで、この男を釈放することにする」。しかし人々はあくまでイエスを十字架につけるよう主張し、大声で要求した。そして、とうとう彼らの声が勝ち、ピラトは彼らの要求を入れることにした。そして、彼らの要求どおり、暴動と殺人のかどで投獄されていた男を釈放し、イエスを彼らに引き渡し、思うままにさせた。

 イエスよ、わたしは、総督の前にいる、あなたを見つめている。総督は、三度、民の要求に反対しようと試み、最後には、民衆を前に-三度、尋ねられ、三度とも、あなたに反対した民衆を前に-、何も選ばないことを選んだ。
民衆、つまり、すべての人々、そしてつまり、誰でもない人々。群衆の中に隠れて、人は、自分の人格(自分自身)を見失い、その他の何千という声の一つになる。最初に、あなたを拒み、そして自分を拒む。自分の責任を、顔のない群衆の、変動する責任の中に分散させながら。
それにもかかわらず、人には責任がある。扇動者たちに迷わされ、人をあざむく、耳をつんざくような声をもって広がる悪に迷わされ、イエスよ、あなたを断罪する人となる。

 わたしたちは今日、そのような不正を前に、恐怖を覚え、そこから離れたいと望む。しかし、そのようにしながら、わたしたちは忘れてしまう。わたしが先ず、あなたではなく、バラバを救うことを選んだ、すべての時を。わたしたちの耳が、善の呼びかけに閉ざされていたとき、わたしたちの前の不正を見ないようにしたとき。

 この、人でいっぱいの広場の中で、たった一つの心でも、疑いを起こしたなら、たった一つの声でも、悪の何千もの声に反対して上げられたなら、十分だっただろう。人生が、わたしたちを、一つの選択の前に置くたびに、あの広場、あの間違いを思い起こそう。わたしたちの心に疑うことを許し、わたしたちの声に、声を上げるよう命じよう。

 主よ、あなたに願います、わたしたちの選択を見守ってください、それを、あなたの「光」で照らしてください、わたしたちの中に、自分を問いただす能力を磨いてください:

 「悪」だけが、決して疑いません。地面の中に根を降ろした木は、もし、「悪」によって水をかけられるなら、枯れてしまいます。
でも、あなたはわたしたちの根を、「天」に、そして枝を地上においてくださいます。

 あなたを認め、あなたに従うことが出来るように。
「主の祈り

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2018年3月26日 | カテゴリー :