・ある主任司祭の回想・迷想 ⑧「葬儀は安ければいい」を考える

 ここ数年「日本の葬儀は高すぎる」ということで、「格安の葬儀プラン」が商品化されていることを、各種の広告から知ることができる。相当な低価格が実現されているようだが、少々疑問が残る。だからもっと妥当なタイトルは「余裕があるのに格安葬儀のほうが得だからということで、後から死者への後悔がなければ、それでもいいのですが」のほうがいい。

 ただ、それだと長い。しかもこれは困っている遺族にではなく、そういう商品を大々的にプレゼンテーションしている業者の側にいいたいことである。「あなたがたはそれを売り物にして、本当にそれで遺族に対して、それでいいのですか」ということだ。ちょっと見には遺族(彼らには消費者)の味方を気取っていたりするが、「人の死に関して、そこまでやるのか」という状況があるからだ。

 確かに、仏式は安いとはいえないし、広告に過度な売り込みの誇張がないのであれば、それはキリスト教式と比べても費用がかからない。というか、そもそも葬儀社にとってそれは商品だとしても、(少なくとも教会は)それをビジネスとは考えない。仏式、神式だって、本来は金銭目的ではなかったはずだし、もちろん「目的」に見えてもそうだったとしても、やはり本質的には「手段」であろう。

 私自身、これまで何度、いわゆる「無料」で葬儀をしたであろうか。まあこの場合、司祭や牧師、住職や神官のそれと、営利団体たる葬儀社のそれとは事情が異なるため、「手段」だの「目的」だのという価値基準はここでは、いったん脇に置く。問題は、愛する家族への遺族からの気持ちとして、経済的に負担がかさむような遺族の状況は別として、「とにかく安いほうがいい」という価値基準のほうである。

 繰り返すが、遺族の経済的事情は大事なことではある。しかし、「ともかく安ければいい、そのほうが得だ」ということで、死者への気持ちを割り切ってしまって、本当にそれで納得できるのか、ということをここでは扱ってみたいのだ。

 安く済ませたものの(または故人も遺言では「金をかけるな」としているため、その点、遺族の意向と矛盾がなくとも)何年かして、「あの時、本当にあれでよかったのか」と思う日が来たとき、もう取り返しがつかない。そういう相談を受けたとき、教会であれば「追悼ミサ」をして差し上げるのが精一杯。後悔する遺族には、いつまでも自分の過去の(あの時の)判断が付き纏ってしまう。

 あらゆることが軽薄短小になっていった1980年代から、こうした事例が後を絶たない。しかし、葬儀の際には、それなりの経済的負担が確実に遺族に降りかかる。「仏式より安いと聞いたので教会葬にしたいのですが」という申し出は、もとよりお受けできるはずもない(一応、事情は聞くには聞くが)。しかし、教会以前に、葬儀社にはもっとストレートな金銭的問い合わせがあるわけだ。

 繰り返すが各々事情があろうとは思う。しかし、金銭的余裕がありながらも死者のために金銭を惜しむ風潮は、合理化できないことを合理化してしまった消費主義社会に死者をも巻き込んでしまった結果だといえるし、「安ければ安いほどいい」という感覚で死者を見送るため、数年後の遺族には「あの時、本当にあれでよかったのか」と、時として後悔が訪れることがある。

 ただし、そもそも高すぎたわけだから、菩提寺によっては著しい檀家離れが起こり、人間的しがらみが、その生命線となっているギリギリの状況さえある。こうして無限のループというか、一種の悪循環に歯止めがかからなくなっている場合もある。

 「無宗教儀礼の家族葬」であれば、葬儀社にかかる費用だけだし、これは初めからサービス産業なのだから、安くていい商品をプランとして提示するのは当然の商いとなる。ただし、「いい」か「よくない」かの判断は畢竟、「消費者」である遺族の評価による。つまり、かなり「危ない橋」ではないのか。とってつけたような格安商品は、こうした時に、もろに「安かろう、悪かろう」が露呈してしまう。経験と実績がもとめられる業界なのだ。経験と実績があればあるほど、”業者”の間で経営的に差がついてしまうのは当然だろう。

 本来は本人が生きているうちに、家族間での話し合いが十分になされ、死について、あるいは特定の信仰を持っているなら、その信仰について、何より、人間とは何かについて、コンセンサスを図っておく… などということは、今の時代、暇な人がやることだ、とされ、先送りされてしまう。「話し合うこと」そのものを嫌う人も多く見受けられる。面倒なことは誰にだって分かるが、要はそれを大事に思えるかどうかなのだ。

 私自身は、個人的には、葬儀社の家族葬など無宗教儀礼に手を貸してもいいとさえ思っているくらいだ(キリスト教には準じないとしても、その形式がキリスト教風の家族葬も沢山あるから)。しかし、「格安」のみをコンセプトに葬儀を計画することに手を貸したい、とは絶対に思わない(残念ながら「死者については死人に口なし、遺族についてはただ金をくれる人」という葬儀社もある)。

 なぜなら、そこで遺族が得るものは、「死者への思い」と「追悼の気持ち」、何より「いい式だった、これで親父も浮かばれる」といった安心感なのであり、低価格志向に関する経済的安心や満足は、本質的には副次的問題であるはずだからである。

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2020年10月1日