ピウス12世(在位1939年~1958年)は「トリエント公会議からの路線を順守し、1947年、典礼に関する回勅『メディアトル・デイ』を出します。「教会は、神と人類を仲介する大祭司イエス・キリストの任務を継ぐもので、その中に典礼があり、祭壇の秘跡などに現存するキリストに人は活かされるが、それも祭壇の奉仕者を通してである」(第20項)など、権威的な教会観が述べられています。
「人を教え、統治し、犠牲を捧げる役目は、教会が持っており、そうすることで教会は創造主と被造物の間を再確立する」(第19項)。そして「教会は一つの社会であり、それ自身の権威とヒエラルキアを当然備えている。つまり神秘体のすべての構成員は同じ祝福を分かち持つが、同じ力(権力)を持つわけでも同じ行為をする資格を持つわけでもない。贖い主は、ご自分の王国が、ある仕方で天上のヒエラルキアに似た聖なる秩序(位階)の上に建てられ維持されることを意図された」(第39項)。だから、使徒と、彼らが按手した後継者だけが、祭司職の権能を与えられている… このような教会観は過去のものです。
一冊良書を紹介させていただきます。藤崎衛著『ローマ教皇はなぜ特別な存在なのか』(NHK出版)。わずか160ページの本ですが、ローマ教皇の権威・権力が西欧中世世界の中でどのように作られていったか学べます。
振り返ってみますと、教皇フランシスコは2015年10月の『世界代表司教会議(シノドス)設立50周年記念式典における演説』で、教会のあるべき姿が、「共に歩む」シノダル(共働的)な教会でなければならないこと、それは「聴く」教会であり、その運営方法は「すべての人に関わることは、すべての人によって承認されなければならない」が原則、と語られました。
だから教会は、基本的には全員参加で、意思決定の過程にも最初から最後まで信徒も関わることができ、透明性と説明責任を負っている。「この教会は、”逆ピラミッド”のように… 唯一の権威は、奉仕の権威であり、唯一の権力は、十字架の権力であるべきです」と。
2024年3月14日付けバチカンのシノドス事務局の文書『宣教するシノドス的教会になるには』には、「シノドス的次元と位階的次元は競合するものではない」-シノダリティ(共働性)とヒエラルキー(位階制)は競合しないと言っていますが、7月に出された10月のシノドス総会第2会期に向けた討議要綱はそうなっているでしょうか。
「カトリック・あい」には7月中旬から、すでに全文の日本語試訳が掲載されています(司教団の中央協議会ホームページには、いまだに討議要綱原文も日本語訳も載っていない)が、種々の活動を決める際の「意思決定の過程」に一般信徒をどのように参加させるかについて、どのように記述されているのかを見てみましょう。
「ピラミッド型」という言葉が出てくるのは2か所。第36項と第3部の冒頭部分です。36項では、聖職者の職務観を刷新して権力の行使をピラミッド型からシノダルな型へ移行させ、一般信徒のカリスマと奉仕活動を促す。責任分担をもっときめ細やかにすれば、「意思決定に向けて論じ合うdecision-making 」過程と「最終的に決定を下す(decision-taking 」過程をもっとシノダルな形にできるでしょうと。
第3部の冒頭では、小教区→司教区→教会管区→司教協議会→ 普遍教会といったピラミッド型に従って教会の活動や諸関係等を連続的な次元や段階で処理していくのではなく、また教会間の諸関係と活動を、直線的な形ではなく、むしろ網の目のようなネットワークとして捉えるべきだ、と言っています。
討議要綱に「逆ピラミッド」という言葉が見当たらないのは残念ですが、ピラミッド型から「奉仕するヒエラルキー」へという方向性はわずかながら感じられます。
シノダルな教会になるため、種々の活動を決める際の「意思決定の過程」に一般信徒をどのように参加させるか、その点がどう記述されているのかを見てみましょう。「意思決定のプロセス」を述べた67項から70項は特に重要です。
第67項 <シノダルな教会においては共同体の多様なメンバー全員が、祈り、聴き、識別し、司牧に関わる決定の際には助言することへ招かれています。このことが明確に実行されるべきです。そのためには、すべての人が、「意思決定に向けて論じ合う decision-making 」過程と「最終的に決定を下す(decision-taking 」過程に参加することが最もシノダルな教会になっていくには効果的であることは想像に難くないでしょう。この参加は、共同体の個々のメンバーを考慮し、個々の能力や賜物を尊重して、様々な異なった責任分担に基づいてなされるものです。>
⇒私のコメント:ここで「最終的な意思決定」過程にも信徒は参加するのが効果的とは言っていますが、参加させるとは明言していません。
第68項 <・・意思決定のプロセスがどのような形をとっていくのかを考えてみましょう。通常、意思決定プロセス(decision-making)は、識別、協議、協働を一緒に行なうという「参加と入念な検討」の段階を含んでおり、この段階はその後続いてなされる「意思決定」に情報を提供し支援します。この「意思決定」をするのは究極的には教区の司教などの権限を有する権威者の責任になります。・・・課題を遂行することは共働の仕事であり、決定は奉仕職の責任です。>
⇒私のコメント:要するに、「審議はシノダルに、決定は聖職者がする」ということのようです。これで納得する信徒はいるでしょうか。
第69項 <権威者は、意思決定する前に、諮問(協議)の段階を踏むことが義務となっています。この協議(諮問)や聴取を軽視することはできません。法的には諮問(協議)で得た意見に権威(者)は拘束されませんが、しかし全般的な意見の一致があるのなら、明白な理由がない限り(=自己の意見がそれに勝るものと自ら判断する理由がない限り)権威者はそれから免れないことになっています。もし権限を有する権威者がそれを無視するなら、権威者は諮問(協議)者たちから孤立してしまい、一致の絆を傷つけることになります。権威の行使は、恣意的な意思を押し付けることではなく、むしろ聖霊が求めることを共に探していく調停的な力となることにあります。>
⇒私のコメント:ここで「自ら」とは、言うまでもなく「司教など権限の保持者」です。司教は、「皆が優れていて合理的だ」という意見に逆らって、自己の意見に固執することはできない。しかし多数者の意見が何らかの拘束力をもたないと、司教が”我が道”を行く恐れは十分にあります。)
第70項 <シノダルな教会においても、決定(決議)は司教、司教団、ローマ教皇の責任かつ権利です。しかしその決定権・決議権は無条件ではありません。諮問(協議)の過程で適切な識別の結果として出てきた方向性は、—特にそれが地方教会の参加諸団体によって出されたものであるなら—無視されてはなりません。識別の目的は・・聖霊に従って皆で共有された決定に至ることです。教会において、審議は、皆の助けをもってなされ、かつ、その奉仕職ゆえに決定を下す司牧的権威者なしでは、なされないのです。このゆえに、教会法典に散見される定型句、「諮問投票権(参考投票権)のみ」は諮問(協議)の価値を貶めるものであるので、修正すべきです。>
⇒私のコメント:現行教会法典の「参考投票権のみ」は修正されるべきだ、と明言したことは改革への意志を示していますが、問題は、どのように具体化されるかでしょう。67~70項は結局、「ヒエラルキーの下でのシノダリティ」という構想のようで、その意味で「シノダリティとヒエラルキーは競合しない」ということのようです。
*ドイツが考える意思決定のあり方はどうなっているか・・
ドイツの提案(2022年9月8~10日 第4シノドス集会&フォーラム 教会における権力とその分散」)を紹介します。
教区レベル(小教区レベルも同様)で、既存の評議会や委員会、団体・グループ等からシノドス評議会を作り、教区の重要な事柄すなわち重大な人事計画や人事的開発、司牧計画、将来の展望、重大な財政的決議などを審議する。その際のプロセスは次に通りだ。
① 教区のシノドス評議会は自由・平等・秘密の投票で選出されるべきである。その構成は、教区の神の民をその種々の自発的なフルタイム勤務の団体と奉仕・役務と共に反映するものとなり、またできる限り性別的かつ年代的に平等に構成されるべきである。・・・
② 教区のシノドス評議会は、司教、及び、評議会によって選ばれた議長の二人が共同議長として運営されなければならない。
③ 司教が教区のシノドス評議会の決議(決定)を認めれば、この決議は法的に効力を持つものとなる。
④司教がそれに同意しないために、法的に有効な決議ができない場合は、新たに審議がなされるべきである。ここでも合意に達しないときは、評議会は三分の二の多数をもって司教の票を否定しても構わない。
⑤司教がこの決定をも否定したために、いかなる合意にも至らない場合は、調停の手続きが開始されることになるが、その場合の条件は前もって決めておかねばならないし、そのことにすべての関係する者が関わっておくべきである。
この「シノドス評議会」はすでに筆者がコラム「シノドスの道に思う➉」で紹介した司教に対応する「カウンターパート」を意味します。ここまですれば、「共同参加」「共同責任」と言えるでしょう。
以上のような協議と決定過程を、透明性と監視(スーパービジョン)を確保しながら行なうなら、司教の「一致の奉仕」もなされた、と言えると思います。