*「洗礼による尊厳」から「秘跡」が出てくる
最終文書第15項から「神の民としての教会、一致の秘跡としての教会」という第2バチカン公会議の考えです。三位一体の神の名によって洗礼を受けた人々は「神の民」となり、まだ洗礼を受けていない人々に対してこの民は「しるし、秘跡」となります。そのため教会の外に向かって派遣され、宣教する召命を頂いていると言っています。
教会すなわち神の民は洗礼において同じ一つの霊から飲んでいるので、「洗礼の尊厳(洗礼による尊厳)」はすべての人に等しく与えられています。この等しく与えられた「洗礼による尊厳以上に高いもの・優れているものは何もない(第21項)のです。種々のカリスマや召命や奉仕職があってもです。ぶどうの木の枝のようにすべての人はキリストにつながっている。
*「シノダリティを優先するヒエラルキー」であるべきだが・・
この「秘跡・しるし」としての教会の中に 洗礼、ユーカリスト(聖体)、叙階などの7つの秘跡があります。ですから ある人が司教になっても「最も高い・優れている」と言われている洗礼による尊厳を上回るものではないのです。だからこそ「共に歩む」というシノダルな教会でなければならないし、可能なはずです。
ただ制度の中で司教たちは「叙階」されることで、それが「秘跡」とされ、教会に奉仕する務めを見える形で受けている、公認されていると言えます(第32,33項)。洗礼も叙階も同じ秘跡だとすれば、洗礼の秘跡のほうが初めであり基本であるのですから、ヒエラルキーよりもシノダリティの方を、もっと重視した教会制度にしなければならないのではないでしょうか。
*聖なる人と一般信徒(俗人) の区別の歴史
いつから叙階が 「秘跡」 だと主張されるようになったのでしょうか。聖書には、教会の指導者を選ぶとき、 使徒が相応しい、と判断した人に「手を置いて 祈った」(使徒言行録13章3節)とし、洗礼のとき、その人の上に「手を置く」と聖霊が降った、とあります(同19章6節)。ですから叙階が秘跡と呼ばれるようになる以前から、「手を置いて聖別する」という形が習慣となり、それが叙階であり、聖なる務めのためのものという理解は早くからあったでしょう。
しかしながら典礼史のユングマンは『古代キリスト教典礼史』の中で「祭司」(ヒエレウス、サチェルドス)という異教の用語を、キリスト教の司教や司祭に用いることは、長いこと避けられていた、はばかられていた、と2度も述べています。
なぜなら異教における「人と神との仲介者」としての犠牲・いけにえを捧げる祭司は、キリスト教ではイエス・キリストのみであるからです。ようやく2世紀の終わり頃になって「祭司」という語が使われ
るようになったとユングマンは言っています。
米田彰男(ドミニコ会司祭)によると、テルトゥリアヌス、ヒッポリュトスあたりから、そしてオリゲネスあたりで、キリスト者の奉仕職にためらいもなく「祭司」の名称を与えていく(『神と人との記憶―ミサの根源―』知泉書館 )ペトロの手紙1にあるように、神の民、「共同体」全体が祭司職を担うにもかかわらずです。
そしてコンスタンチヌス帝によるキリスト教公認と国教化以降、司祭 司教は社会的な権力も与えられていき、一般信徒との区別は明確になっていきます。「神と人との仲介者は、人であるキリスト・イエ
スただ一人です」(テモテへの手紙1・2章5節)という重要な真理は徐々に忘れられていきました。
話が飛びますが、第2ラテラン公会議(西暦113 年)の決議では「主の御聖体と御血の秘跡」とはありますが、奉仕職については「聖なる奉仕職」とだけ書かれています。1274年の第2リヨン公会議では「教会の秘跡は7つ であり、そのうちの一つ、叙階は秘跡である」と明確化されています。
*最終文書で「シノダリティはヒエラルキーの枠内で」となっている
初めに申し上げたように、まず「洗礼の秘跡」があり、その上で、その中のある人々が「叙階という秘跡」によって聖職者になるわけですが、その権威は制度としての教会が与えることは、誰もが納得するでしょう。しかしその権威が「使徒に由来する」とか、さらには「神に由来するものである」と断言されると、容易には受け入れ難いのではないでしょうか。
第2バチカン公会議『教会憲章』で、ヒエラルキー、すなわち位階制度は「キリストが使徒たちに託した神的なもの」であると言いました。今回の最終文書でも、シノダリティは位階制度の枠内で具体化されていくことが随所に見られます。
例えば、第68項を見ると「第二バチカン公会議は、神的に設立された叙階による奉仕職が種々の位階において、すなわち古代から、司教、司祭、助祭と呼ばれてきた人々によって行使されている」ことを想起させています(教会憲章28項) 最終文書の第33項にも「司牧者の権威は教会という体全体を建てるため頭(かしら)であるキリストの霊の特別な賜物である。この賜物は司牧者をキリストに似た姿にする叙階の秘跡に結ばれている」とあります。
こういった理解は上述してきたように、容認するのが難しくなっていると言わざるを得ません。また実際、世界各国で聖職者による性的虐待が蔓延していることを考えると、なおさらです。
*男女は「同じ尊厳」を有するが「平等」ではない?
最終文書にも引用されているガラテヤ書3章の言葉「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはやユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」を文字通り受け入れるなら、男女は平等なはずです。ところが第52項では、男女の不平等は神の計画の中にはないが、男女の違いはある、男女の「この違いは神からの贈り物であり、生命の源泉である。男女間の等しい尊厳と相互性を尊重する関係のなかで生きようとするとき、私たちは福音を証しするのです」と。相互性とは相補性・補完性とほぼ同義です。
男女の違い、という考えは、教皇フランシスコの『福音の喜び』にも見られます。男女は等しく尊厳を有しているが、女性には母性に表れるような特別の気配りがある。しかし「聖体の秘跡によって受け渡された花婿としてのキリストのしるしとして、司祭職は男性に留保されます。・・ここで考えられているのは役割であって、尊厳や聖性ではありません」(104項)と。つまり尊厳は男女とも同じであるが、役割が男と女では違うのだ、というのです。
「カトリック・あい」1月のコラムで紹介したように、バチカンは「平等」という言葉を避けたがっているように見えます。第52項と第60項で「等しい尊厳equal dignity」という言葉は出てきますが、平等equalityという言葉は一度も出てきません。男女は同じ尊厳を有するが、平等ではない、と。
*教皇フランシスコの不合理な説
男性と同じ尊厳を持ち、同じ指導者としての役割を担う能力を女性が持っているのなら、「女性を助祭叙階できない」というのは、なかなか理解できないことです。ちなみに「ActionPurple Stole」という女性の助祭 司祭叙階を求める団体が各国にあり、保守的な司教が3人もいる南ドイツでも活動しています 。
またこの団体のウェブサイトを見ますと、America Magazineとのインタビュー(2022年11月)で、教皇フランシスコは、女性と男性を分ける独特な考え方をしていて、「女性の司祭叙階を認められない」という説を紹介しています。
*一歩前進した「意思決定のプロセス
最終文書の第87∼94項で、教区や小教区その他で何かを決めるとき、そこに誰が参加してどのようなプロセスを経て決めるのかが、示されています。今シノドス総会の第1会期よりも第2会期で議論は深まったのでしょうか。
第2会期に向けた 討議要綱』において意思決定のプロセスがどう記述されていたかについては、このコラムの「シノドスの道に思う⑮」で詳しく書きました。そこに書いたことから進展はほとんどないと思います。92項で、現行の教会法典にある「参考投票権のみ」とあるのは再検討されるべきで、シノダルな観点から諮問・協議と決議の違いと関係が明確になるように改訂すべきである、としているの
は前進ですが、決議権(決議投票権)も下位の者に与えるとは言っていません。
すでに存在している団体や組織をシノダルに参加させること、差異化された共同責任、つまり位階制に基づく違いによる働きに基づいて参加することを促す、としています。ヒエラルキーの枠内においてです。また92項「シノダルな教会において、司教、司教団、ローマ司教の権威は、キリストによって設立された教会の位階制構造に基づいたものなので、意思決定のプロセスにおける決議権は彼らすなわち司教、司教団、ローマ司教に不可侵のものである」と、権威の不可侵性を主張しています。これではシノダリティが窒息することが危惧されます。
*「共に」が実現するか否かは 結局司教の意思と能力次第・・
その他、シノダルな教会になるために一般信徒がもっと教会の活動に「参加」して奉仕の幅や場を広げることが66、75∼77項など、また「参加する団体や組織」を既存のものだけでなく新設することなどが103~108項に書かれていますが、果たして司教たちが率先して実行するのかどうか・・。指導力、実行力、組織力、責任負担能力・・そういったものを「神の国」建設のために持ちうる司教がいるのかどうか。
信徒がいくら「共に」と声を上げても、司教が「否」と言えば、それでお終いになりそうな「意思決定のプロセス」から「透明性、説明責任」(95~99項)となっているように思います。司教、司祭と信徒の間の「信頼」(97項)の欠如、そして聖職者主義(98項)が、密かに日本の教会には蔓延しているように思います。
*信者団体「我らが教会」の主張
このコラムで何度か紹介したこの団体は、国際的に37か国に広がっています。
今回のシノドスで残された問題に関して、 女性の助祭叙階だけでなく、①女性司祭、司教の叙階を求めていく② これまで司祭だけに限られていた指導的な仕事を、ジェンダーや性的指向や独身か既婚かなどに関係なく、誰であっても適切な人物に与えること③ 司教や司祭と、各分野の参加団体の間のルールを明確化して多数者の意見が無駄にされないようにすること④ 司教の選出に当たって、一般信徒も選挙に参加できるようにすること⑤ 同性カップルの祝福⑥ 独身制の自由選択。叙階によるすべての奉仕職は、ジェンダーや性的指向や生活形態の如何にかかわらず、全信徒に開かれるべき、などが主張されています。
また、これまでドイツの「シノドスの道」でシノドス委員会の設立に反対してきたバイエルン州の3教区の司教たちに、建設的に参加することを強く希望しています。因みにアイルランド人司祭Tony Flanneryは「今のところヨーロッパで脱中央集権化に挑戦しているのは、ドイツの司教たちだけのように思える」と述べています。
*民主主義を基底に据えた教会に
最後に、ご存知のように欧州連合EUは最初6か国からスタートし、現在27か国が加盟しています。民主的な政体を持つことが条件です。人間はどこかに誰かに従属して生きるのではなく「自由、平等、相互愛」の中で生きることを望むものではないでしょうか。カトリック教会も民主主義をベースにして、その上に教会独自のものを置くようにしないと、少なくとも民主的な国の人々は受け入れないのではないでしょうか。
最終文書で結論が出なかった課題について10の研究グループが来年6月までに成果を公表することになっています。また来年7月にはドイツの教勢報告も出ます。注視していきたいと思います。なお今回をも
ちまして、この「シノドスの道に思う」の連載を終わりにします。これまでお読みくださいました皆様に心より感謝いたします。
(西方の一司祭)
*参考資料=フランシスコ教皇『福音の喜び』(カトリック中央協議会)、第2ラテラン公会議等についてはDenzinger、The Sources of Catholic Dogma、 学術誌『クリオ』2018年5月、32号(東京大学)、Tony Flannery、From the Outside、Red Stripe Press。その他 We are Church、Action Purple Stole等のウェブサイト参照。
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