*一年の計は元旦にあり
新しい年の始まりに、仕事や勉強、ダイエットなど、様々な新たな目標や挑戦のために計画を立てる方が多いのではないでしょうか。一方「「新年の抱負なんて馬鹿げている」とお思いになる方も少なくないでしょう。
そもそも、新しい年が始まる日付は、様々な背景や理由により実は恣意的なものなのだ、といわれています。例えば、バビロニアや古代ローマでは3月(マルティウス=Martius)、ドイツやイギリスは13世紀まで12月25日のクリスマス、中国では太陰暦の月の満ち欠けの周期をもとに、設定されています。そして、我らカトリック教会の典礼暦では、待降節初日が一年の始まりとされています。従って、新しい目標や抱負を立てるのに、わざわざ1月まで待つ理由はない、というわけです。
また、世の中で行われてきた多種多様な調査をみると、「私たちが立てた新年の抱負の概ね90%以上は、その1年を通して持続しない」ともいわれています。とりわけ1年の変化が急激で、自分の身の回りも社会全体もあっという間に変わってしまう今日の時代において、はたして「一年の計は元旦にあり」に意味があるのでしょうか。それでも、1月1日に自分の人生や生活に変化をもたらすような目標や抱負を立て続けおられる方が、少なくない。いろいろ言われているにもかかわらず、「それが素晴らしいことだ」と私も思っています。
*希望を持って、新たな出発
新年の真の目的は、単に暦の変り目を告げることではなく、私たちの心と視界の再生に火を付けることだ、と思います。新年は、私たちに「新しい視点を受け入れ、新たな決意で前進し、勇気ある気概を強めるよう」と呼びかけています。新たな耳で聞き、明るい目で見、生きることの素晴らしさを再発見することを促しています。
なぜなら、果敢な抱負がなければ、私たちは立ち止まってしまう危険があるからです。人生そのものが真新しいかのように、あえてもう一度始める勇気がなければ、変革の深遠な力を逃してしまいます。真に生きるとは、新たに出発することであり、神聖な刷新の可能性を受け入れることであり、天国の約束に一歩でも近づくために、希望を持って、新たに思い描かれた人生へと歩みを進める希望なのだ、と思います。
主イエスは言われました。「よくよく言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ福音書3章3節)。希望は、私たちを新しい人間にしてくれます。「明日も昨日と同じに違いない」、「人生は決して変わらない」と考えるのは、「心の中で死ぬこと」と同じではないか、と思います。新年の抱負のような単純なものでさえ、神が私たちを希望の被造物として造られたことを認めることではないでしょうか。
(ガブリエル・ギデオン=シンガポールで生まれ育ち、日本に住むカトリック信徒)