・ある主任司祭の回想・迷想 ⑨同期の友人神父の今も変わらぬ”淋しさ”は

 「わし、淋しいからここにおるんかな、と思うのや」とS師は言っていた。神学生時代のことだったが、今もそうだ。

 「わし、淋しいから神父なんやないかと思うのや」。多分、これを聞くと「えっ」という人がほとんどだろう。しかし、S師の言葉を言い換えればこういうことになるだろう… 「自分は人間が好きなのだ」と。

 実際、司祭は人間相手の仕事である。勘定が合わなくても、避けて通れないことが多い。つまり、司祭職の内容そのものが「泣き所」なのである。だからS師の言うことは、正論中の正論だ。表現が独特なのだが、普通に聞くと「えっ」となる。

 特定の何かに心酔することがなく、主義主張にとらわれないノンポリの最たるもののように、考え方が違う誰とでも飲みに行く(といっても彼はお酒に強くはないのだが)。

 神学生たちは、土日には小教区のお手伝い(というか、研修なのだが)に行く。これをアポストラートス(遣わされる者という意味)と言う。通称アポである。日曜日の晩の祈りの後に皆で夕食を取るが、そこでの話題は「アポ先」の教会に関するものとなる。

 神学生によってはアポ先の教会の複雑な人間関係に巻き込まれることもあるから、暗い顔つきの食卓になることもあるのが現実だが、S師はアポ先の教会について、いつも実に楽しそうに語っていた。 いろいろなことがあっても、彼にとっては面白いのである。実際、そういう機会がないと、逆に彼には「淋しい」という思いなのだろう。

 「今日な、夏休み明けてから最初のアポやったけど、わし、おらんかった間、淋しかったん言われたんや、シスターからそう言われてな、わし、嬉しかったんや」。気難しい神学生から、「だから、なんだってんだよ」とすかさず、たたかれる。

 それでも懲りずにS師はしゃべり続ける。「海外出張が決まったリーダーがな、『僕がいなくなったら、教会学校はどうなってしまうのか、出張の話は断ろうかと思ってるんですよね』って言うねん。わし、言うたったんや。『ドアホ。あんた、他人の心配しとる気で、自分の心配しとんのや。あんたおらんかっても、子供たち元気に遊ぶわ』ってな」。

 真面目な学生がまたもや即座に突っ込む。「Sさん、そんな配慮に欠けること言っちゃダメですよ」。

 S師も反論する。「そやかて、イエス様そんなこと言うてへんで。わしらホンマは取るに足らんもんやで、気負ったらあかんのや」。

 正論である。もちろんS師は教会の奉仕に関わる方々をつまづかせるような人ではない。ただ自己評価の高い気負った人に対して、「正直すぎる」のである。だからいつも突っ込まれる。

 しかし、突っ込まれても、突っ込む相手を嫌わない。「わし、淋しいから神学校におるんかな?」と聞くS師。「知るか」と思いつつ、「そうなんでしょうね」と答える私。

 そもそも神学院の在学する時も、小教区に着任する時も、「いてやってるんだから」などという傲慢な態度ほど、非司牧的な感性はない。そういう意味では「やってやってる」という奉仕ほど他者性を欠いたものはなく、「祈ってやるよ」という姿勢ほど、隣人への非礼はなく、本来の「祈り合う」教会の精神から、かけ離れたものはないだろう。

 「誰にも、悪をもって悪に報いることなく、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に過ごしなさい」(ローマの信徒への手紙12章17⁻18節)。

 このみことばを思い浮かべて想う。これは「相手に無理に迎合して自分を曲げよ」という屈辱的な要求では、決してない。屈辱的どころか、逆に自分が相手を選ぶのではなく、相手からどう評価されようと、微動だにしない、高貴な精神の勧めである。

 そうすれば多くの友を得る。反対に我執にとらわることで友を遠ざけ、孤立を深めるのは、選びの視点が「主に」ではなく、「自分に」あるからであろう。

 …私は、S師を賛美するためにこれを書いたのではない。彼はいわゆる”聖人”ではない。それどころか、賛美に値する名誉を欲するタイプとは無縁の人だ。そういうことは、彼にとっては「しんどい」し、「ややこしいのや」という結果となる。

 では、彼の行動の究極の動機は何かというと、「淋しいのや」である。「誰が上とか下とかどうでもええねん。イエス様は、それが嫌いやねん」。

 なるほど、だからこそ「淋しいのや」という彼には、今も、友人が多い。

(日読みの下僕)(聖書の引用は「聖書協会・共同訳」を使用しています)

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2021年1月31日