・「神様がくれた贈り物」㉟『見知らぬ人を助けるために勇気が要る時代、でも善きサマリア人を見習いたい』

 先週、自身に起きたことである。

 私の目の前で、自転車に乗った男子小学生が、転んでしまった。ほんの数十秒の間に、頭の中で、「助けたい! けれども、どうしよう…」という考えが何度もぐるぐる回った。声をかけるか、悩みに悩んだ末、私の口からは「大丈夫ですか?」という、情けないほど小さい声が出た。男の子は、「はい!」と、はっきりと大きな声で、返事をした。膝の擦り傷は赤い血と黒い泥の汚れが混ざり、痛々しい。私の胸がぎゅうっと苦しくなった。

 同じ日本に住む、日本人同士なのに、誰かを助けることが難しい。そう感じることが多くなった。

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 人を助けるのを躊躇するようになったのは、4、5年前、大型の家具店での出来事がきっかけだ。母親を見失った様子の女の子が涙を流して泣いていたので、私は、当たり前のこととして、「お母さんのこと、一緒に探そうか?」と女の子に声をかけた。「うん」という涙声で返事があった。私は「大丈夫だから」と声をかけた。

 しばらくすると、その母親らしき女性が、こちらに向かって歩いて来た。女性は、私のことを睨むように見て、女の子の腕をつかんで、そのまま去ってしまった。女性が咎めるような声で「知らない人としゃべったら、駄目だって、言ったでしょ?」と話したのが、聞こえてしまった。「まさか、こんな結末になるとは…」と、がっくり肩を落としてしまった。

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 聖書に出てきたサマリア人は、ためらうことなく、強盗に襲われた人を助けた。普段のサマリア人は、ユダヤ人から、蔑む扱いを受けていたにも関わらず、当たり前のように困っている人に愛を注いだ。

 その人は、「サマリア人のくせに、さわるな!」や、「お前のようなサマリア人に助けられたくない!」など、差別的な発言が返ってくる心配をしなかったのだろうか?  あるいは、自分が傷つくような反応をされることを、不安に思わなかったのだろうか?

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 見知らぬ人を助けることに対して、まだ恐怖が抜けきらない。「助けようとしたのに、怪しい人だと思われたらどうしよう?」「助けを拒絶されたら、どうしよう?」。そればかり、考えている。

 けれども、この考えは、自分にしか視点が向いていないのだ。自分の行動は、相手にとって、助けになるかもしれないし、そうならないかもしれない。半分の確率であっても、もし、相手の助けになるのなら、勇気を出して声をかけたい。神様、どうか私にその勇気をお与えください。アーメン。

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2026年6月30日