ある国の障害者施設が、近代的で便利なものに建て替えられたらしい、という話を聞いた。私たちは、そのおしゃれな外観や内装を思い描いて、憧れの眼差しを向けていた。
その時、「たしか、宗教が関わっているよね…」と声を落として言った人がいた。確かに、その施設の改修の費用の内訳には、キリスト教の団体の寄付があった。けれども、偏見がにじみ出るようなその言い方に、私の胸がぐっと詰まるような気持ちになった。
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日本では、まだまだ「宗教は、怪しいものだ」と見られたり、「宗教を信じる人は、危険な思想を持つ」という思い込みが強いようだ。だが、海外ではその印象は真逆である。それを目の当たりにした経験がある。
まだ洗礼を受けることすら頭になかった頃のことだ。カナダ人の友人が、日本での仕事を終え、帰国することになった。その前に、私たちはお別れの挨拶をしたくて、一緒に喫茶店へ行き、和風のパフェを食べた。その時に、彼女は初めて自分の信仰について話してくれた。「バハイ教に出逢い、自分らしく生きられるようになりました」と目をキラキラさせた。自分の信仰について語ってくれたことに、私の心の深いところが、じんわり温かくなった。
「ところで、マイが信じる神は?」と質問されたので、私は「信仰はない」とごく自然に答えた。すると、彼女は驚いて、「…really(本当に)?」と私に聞き直した。その予想外の反応に、私は、ポカンとしてしまった。何が起きたのか、分からなかった。
それから何年かたって、高校や大学で、なぜあの時、彼女が驚いたのか理由が分かってきた。英語の授業中、教授が次のように話されたのだ。
「外国で、自分の信仰を尋ねられた時、『自分は無宗教だ』と答えるのは、あまりおすすめしません。なぜなら、彼らにとって、それぞれの信仰は、道徳的な行動をとるための指針のようなものです。それがない、ということは、サイコパスのように、残忍で、残酷な行動を平気でする人間、とになる。しかも、自分からそれを宣言する人だ。そう思われたら、怖いですよね」。やっと腑に落ち、すっきりした気持ちになったことを、今でも覚えている。
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日本の「信仰はない」と言う人たちには、「宗教をむやみに怖がらないで」と願ってしまう。けれども、誰にとっても、分からないものは怖い。私だって、初めて教会を訪れた日は、ものすごく緊張したし、中に入るのをためらう瞬間があった。今は、自分の前に、教会に興味をもった人が現れたら、その瞬間の自分を思い出しながら、言葉を紡ぎ、向かい合いたい。
(東京教区信徒・三品麻衣)