・「神様からの贈り物」㉒日本に『修復的司法』がもっと広がってもいいのでは?

 本コラムの内容は、まだまだ考え続ける必要があると感じているが、今の時点で、私の精一杯できるところまで、書いてみた。

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 「人が、人を裁けるのだろうか?」という問いが私の心の中に生まれたのは、16歳になる少し前のことだった。

 きっかけは、ある同期との出逢いだった。『the 陽キャ』だった彼女のユーモアや言い間違いに、私たちが笑い転げた回数は、数知れないほどだ。

 ある放課後、私が、図書室に本を返そうと立ち寄った日のことだった。偶然にも、彼女を図書室で見つけたが、私は彼女の名を呼ぶのをためらった。なぜなら、彼女が本を読む眼差しは、真剣そのもので、普段の姿からは想像もつかない様子だったからだ。私は、彼女に声をかける代わりに、そのタイトルをそっと確認した。それは、死刑制度に反対する本だった。

 この出来事は、私にとって、今まで当たり前だと思っていた死刑制度について、初めて考えるきっかけになった。そこから死刑制度の是非以前に、「人が、人を裁くことは、可能なのか?」を考えるようになった。16歳にして、大きな問いにぶつかった私は、本の中で『修復的司法』という言葉に出会った。

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  国の法律を破った人は、罪の代償としてその個人が刑罰を受ける。これが『懲罰的司法』というやり方にあたる。それに対して、先に出た『修復的司法』は、起こった事件をその地域に起きた害悪として捉え、関係者みんなで解決しようとする。具体的には、第三者が加害者と被害者を仲介して、対話の場を設け、そこでそれぞれの体験や気持ちを共有したり、罪をどうやって償うかを話し合ったりする。欧米では『修復的司法』によって、再犯率がかなり減ったというデータもある。ただし、重大な事件(殺人事件など)だと、会を開くことが難しいなど、デメリットもある。

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 あれから約20年が経ち、私は、大きなトラブルに巻き込まれた。その時、私が求めていたのは、お金や懲罰ではなく、誠実な謝罪と反省の言葉だった。だが、今ある刑法で、私のニーズは叶えられそうにない。諦めかけた時に、遥か昔に、本で読んだ修復的司法の知識がよみがえった。

  早速、私は、修復的司法の対話の会を開催できる弁護士をスマホで探した。探し出すことよりも、そこに連絡する方がよっぽど勇気が必要だった。何度も悩んだ末に、私は、事情を説明したメールを送った。

 数日後、丁寧なお返事をいただいた。そこには、私の場合、対話を持つのは精神的な負担が大きいということや、とても難しいケースにあたること、また、過去にも例が極めて少ないことなどが、分かりやすく文章にまとめられていた。私の心情に寄り添いながらも、専門家としての意見を誠実に伝えてくださった。私を支える周囲の人たちからも意見をもらい、結局、私は会を開くのを見送ることを決めた。

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 私は、もっと日本に『修復的司法』が広がってもいいのでは?と考えている。当時の私は、相手方にどんな事情があり、どんな気持ちなのかを知りたかった。また、「きっと反省してくれているだろう」と、希望を持っていた。ただ、正直なところ、自分を傷つけた人を前にして、冷静でいられるかどうかは、自信がない。

 けれども、私たちが立場を越えて共に考えるプロセスは、決して無駄ではないと、私は感じる。今の私に書けるのは、ここまでだが、今後も折に触れて考え続けたい。

(東京教区信徒・三品麻衣)

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2025年6月1日