2026年5月、聖霊降臨の主日、三位一体の主日に読まれるヨハネによる福音には『遣わす』『お与えになる』という表現がとても印象的に使われる文脈があり、その時々の状況に思いを馳せる。
「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」(20章21節)「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(3章16節)。
この神のミッションを知らずしてイエスを理解することはできないだろう。私自身イエス・キリストをどのくらい理解しているのだろうか。多々あるイエス・キリストの本を読み漁ってきたものの、なかなか納得できず、今も不完全燃焼状態だ。ミサ中の説教者が毎週のように変わる昨今、イエスの名前さえ聞かれない主日もある。。説教者の神への思いは、イエスの人格と愛を知るために大切だと思うのだが。
以前、ある教会のミサに与った時に、ミサ後に、その日の司祭の説教について分かち合うグループからお誘いを受けて参加させていただいたことがある。説教をなさった司祭は参加されない。新鮮な驚きであった。この時、既にシノドス的教会を司祭と信徒方が歩んでいる教会があった、と思う。
もう一つの驚き。以前、私の所属教会で議長を務めていた信徒もそこに居て、意見を述べているではないか。彼との偶然の再会を喜び、「さすがに熱心!」「お久しぶり」とエールの交換。社会でリーダーとして、人間関係を試行錯誤しながらまともに生きている信徒と教会の絆は大事だ。外に向かう教会を目指すのなら、必要不可欠だろう。その後、コーヒーショップでの互いの近況報告と分かち合い?に花が咲いた。教会への思いが「熱心」な二人の会話に久しぶりに充実感を覚えた。もっとも、彼との偶然の出会いは、これが初めてではない。。
私は今の世の『人間イエス』を知りたい。この世を人間イエスは、どのように思い、生きるのだろうか。教会についてどのように感じ、どのような立ち位置をとるのだろうか。興味津々である。
「自らと過去に閉じこもった教会、習慣や行動に関する些細な規則だけに目を向ける教会は、自らの本来の姿に背く教会です」(教皇フランシスコの21回目の一般謁見講話「使徒的教会」より)
(西の憂うるパヴァーヌ)