・「愛ある船旅への幻想曲」(44) 世界的にリーダー選挙の年ーカトリック教会における女性の位置、役割は…

 「政治活動を指導する究極的真理が存在しないなら、理念や信念は権力の論理によって簡単に操作されてしまうことを知っておく必要があります。歴史が示しているように、価値観を持たない民主主義は、公然たる全体主義、あるいはうわべだけは民主的な全体主義に簡単に変わってしまうのです」(教皇ヨハネ・パウロ二世回勅「新しい課題 国家と文化」46項)

 世界的に政治リーダー選挙の年である2024年。9月は日本で与野党計13名のトップ候補が立ち、各々の政治理念と人柄を知る月になった。

 ところで、私は、今は帰天されたある司教に「あなたは、政治的だ」と言われた。慧眼と行動力を持つ司教からの指摘に「これは褒め言葉?それとも悪いイメージを込めた言葉?」と一瞬悩んだ。当時の信徒代表会議の参加者の中で一番若かった(?)私は、今まで経験したことのない会議風景の中、他委員のように信徒として100点満点の私的発言もせず、私の小教区評議会の議事録の発表は、教会として次の世代を見据えた「画期的内容」だった。”目がまんまる”の委員方とは対照的に司教は笑顔。聞く耳を持つ司教のおかげで本音でキャッチボールができた良き教区時代であった。。

 司教は2005年の教区民のつどいで、教会が現代社会と離れていることへの危惧を表明。「今の教会の状態を壊すことには勇気がいるが一人ひとりが動かねばなりません。信者も政治と向き合わねばなりません」と壇上から訴え、「10年後には教区の規模も小さくなる、信者の高齢化そして青少年の教会離れが進み事業運営が困難になることが目に見えています」と警告された。

 それから19年、この司教の思いを何人の信者が心に留めたのだろうか。

 私たちは生活を生かすこと。自分の生きている場所が教会であり、そこが宣教の場である。気負わない霊性を持ち、普通の生活、すなわち家庭生活へと思いを馳せる司教の精神的若さと説得力が懐かしい。司教は、女性パワーの必要性、人権問題に言及された。

 政界もカトリック教会も、女性の見方と役割を問題提起しているが、私にとっては、“はて?”である。その場凌ぎの数合わせに意味はなく、男女の区別なく人には適材適所があるだろうし、体力的、能力的にもその場に一番相応しい人が必要であり、無理やりの理屈と行動は長続きしない、と思っているからだ。

 教会の女性への扱いに今も古い体制が残っていることは否めないが、教会と女性双方に問題があると私は思っている。女性の差別をなくすためには、男女の愛、夫婦の愛を正しく知ることではないか。互いの価値観を認め合い、信頼関係ができて初めて其々がどうあるべきか、どんな役割を持っているのかが、分かるはずである。

 独身者、既婚者関係なく、女性に文句を言われたことがない、言わせない男性は、支配欲だけが育ち自分中心の人格になるだろう

 なぜ、カトリック教会が「男性中心社会」と言われるのか。キリスト教の核心は何なのか。教会が人格的形成を妨げることが決してあってはならず、人間らしく生きることを教える場になってこそ社会に開かれた教会になるのではないだろうか。

 「夫婦と家庭は、信徒が社会的義務を果たす第一の場です。この義務を十分に果たすには、家庭が持っている、社会と教会自体の発展のための唯一でかけがえのない価値についての信念がなければなりません」(教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的勧告「信徒の召命と使命 社会的義務を果たす第一の場である家庭」40項)。

 (西の憂うるパヴァーヌ)

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2024年10月7日