・「愛ある船旅への幻想曲」(66)「隠蔽と男性中心の組織、一般信徒の悩み・苦しみに寄り添えない教会を変えるには」

 今年ほど「神の語りかけ」を感じた夏はない。戦争や自然災害の怖さから命の大切さを見つめ直し、全ての人々の心の平安を得るために祈る。一人の私という人間の答えも、神はご存知だろう。

先日、同級生の男友達と久しぶりに会い、高校時代にカトリック教会で4人の米国人司祭方から英語を習ったことを互いに懐かしく話した。1人の司祭は米国の超難関・理系大学出身で、友達は数学も教えて頂いたようだ。

 人生の過渡期に素晴らしい司祭方に私達は出会った。だが、そのうちの2人の司祭は私達が高校卒業前に結婚した。この地で愛する人を見つけたようだ。当時、未信者の英語を習う高校生や高専生は、司祭が結婚できないことを知らなかった。突然、英語クラスが閉講された理由を当時は知るすべもなかった私だが、今ははっきり分かる。。

 あれから半世紀以上たった今も司祭の独身制は変わらない。 「カトリックの司祭は結婚できないんだろう?」と友達。この質問になると、誰もが小声になる。。

 最近では、異なる宗教間の対話は以前よりも活発に行われているかも知れないが、肝心のカトリック信者同士の対話はできているだろうか。

 カトリック教会には、独身制を守る司祭と妻を持つ終身助祭がおり、独身男女の修道者が別々に組織を形成している。この組織形態から世間は何を感じるだろうか。学校の社会の教科書にあるカトリック教会は、中世ヨーロッパでの権威、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルとイエズス会そして豊臣秀吉に始まる禁教、ルターの宗教改革等が記載されているが、司祭の独身制については書かれていない。

近年、司祭の性的虐待事件が世間を騒がせていることから、「隠蔽と男性中心の組織」として世間に知れ渡り、強い非難の対象となっている。組織ぐるみの隠蔽と権威の乱用は赦される問題ではない。「個人の不祥事」とは言えないのである。今まで事件を隠し通し、教会組織の改革をして来なかったカトリック教会の責任は大きい。「私はカトリック信者だ」と友達に言うのが恥ずかしい。このような事実を知っていれば私は受洗しなかっただろう。

そのようなカトリック教会で『人間の尊厳』をどのように理解すればよいのだろうか。私の知る教区では、ある日突然、丁寧な説明もなく、司教から”命令”が下りて来ることが以前より多くなった。まともな信徒にとって、納得がいかない事例が後を絶たず、堪忍袋の緒が切れ、教会から離れている。信徒が何を訴えても、この組織は受け入れない、真摯な対応さえしてもらえない。そのことを彼らは身をもって知っている。

 そして私が出たミサの説教では「”命令”に黙って従う信者しかカトリック教会には必要ない」と、司祭自身が「支配的特権の持ち主だ」と思い込もうとする意図がちらつく。私たち信徒は全ての聖職者を知っているわけではないし、司祭の養成がどのように行われているのか知らない。司祭団がどのような話をしているのかも知らない。司祭たちは、今のカトリック教会の規律や制度に対して、何の疑問も感じないのだろうか。

 私が知る限り、社会で揉まれ、苦労を重ね、他者と交わり、真っ当な人間として生きるために必要な愛を得るために葛藤を繰り返す一般社会の男性と、聖職者の質はあまりにも違う、と感じることがしばしばだ。男友達とするような本音トークは、カトリックの聖職者や修道者とできるはずがない、と思ってしまう。

 私自身は、司祭が結婚できないと知った日からずっと、司祭の選択的独身制が望ましいと思っている。今の世界の教会の状況では、実現には程遠いことも、選択的独身制になれば、教会が大きく変われるわけではないことも分かっている。それでも、少しは一般信徒に寄り添う、”シノドスの道”を共に歩むことのできる司祭が増え、現在の日本、私の周りに見られる、イエスの思いからかけ離れた教会の現状を少しは改める力が期待できるだろう。

(西の憂うるパヴァーヌ)

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2026年9月9日