・「余白の想い」⑧AIの著しい進歩の中で、キリスト教が問われているのは

 キリスト教とAIについてごく簡単に述べる。あらかじめお断りしておくが、私はこの分野の専門家ではないため、思い違いや誤りがあるかもしれない。その点はどうかご寛容に願いたい。

 今現在、AIの進歩・発展が著しく、AIによって我々は過去の歴史や思想を広く参照しながら考えることのできる時代である。キリスト教はその役割をAIに譲ることになるのだろうか。が、キリスト教が不要になるというよりも、人間がキリスト教に求めてきた事柄をAIが代行するようになる可能性のほうが大きいのではないかと思う。

 AIは、人が不安や孤独、喪失、罪責感に襲われる場面を学習し、それぞれにふさわしい教義、儀式、祈祷、音楽、励ましの言葉を提示することができるだろう。そうなれば、既存の教会制度は相対化され、宗教経験そのものが仮想現実やメタバース(仮想空間)の中で再構成されていくかもしれない。

 問題は、そのようなものが信仰そのものなのか、それとも信仰の機能的代用品にすぎないのかという点である。キリスト教の礼拝において、いわゆる聖職者と呼ばれる人びとの一部は、将来、不要になるかもしれない。少なくとも、教義や聖書解釈を説明するだけの説教者は、もはや決定的には必要とされなくなるだろう。

 聖書の原典を、どの学者よりも広くかつ細かく参照し、それを学識のない一般信徒にもわかりやすく解説することは、AIにとってそれほど難しいことではない。しかも、その速さにおいてAIは人間をはるかに上回る。

 しかし、AIにできないことがある。AIは、生きることも死ぬこともできない。身体をもたない故、痛むこともできない。また、祈る主体としての私をもたない。AIは祈りについて語ることはできても、祈ることそのことはできない。そこに、AIと人間との決定的な違いがある。

 産業革命以降、人間は直線的に歩み、人間とは何かを見直さなくてよかった。ここで初めて、自ら作り出したものに人間が乗っ取られようとしている。だから今は、人間にとっての最終章かもしれない。人間とは何かを改めて見直し、新たな人間像を打ち出さないと、人間の未来は危ういかもしれない。AIによって作られる自律型の超AIはそれを物語っている。

 キリスト教が問われるのは、教義の正しさ以上に、人類の危機に対して何を語り、何を支えうるかという点である。 

 

*参照文献:「AI新世紀」毎日新聞朝刊(2026年8月31日、1~2面)AI研究の巨匠、ヨシュア・ベンジオ教授が、AIの暴走で「人類絶滅」の危機と警告されている。

 

 追記:地球温暖化も避けて通ることは出来ない。AIと同じく地球温暖化も我々の未来を危うくすることは間違いない。この二つの事柄(AIと温暖化)を放置することは許されない。

(東京教区信徒 纐纈康兵)

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2026年9月15日