昔、カトリック入門講座で使われていた『カトリック公教要理入門』という本について、どうしても書いておきたいことがある。
この入門書には、少なくとも二つ、見過ごせない欠陥がある。
一つは、「真理そのもの」と、その「真理についての説明」を、ほとんど無批判に同一視していること。
もう一つは、「どのような命題の叙述も、本来は相対的でしかありえない」という、ごく当たり前の事実を、最初から無かったかのように扱っていることである。
究極の神の真理が、信条や教理といった定型文の中にそのまま濃縮されうる、と本気で考えるのは、滑稽だ。しかも、それは、単に「笑い話」で済むような誤解ではない。霊的には、ほとんど「自殺行為」だとさえ思う。
その当然の帰結として、カトリック、そしてキリスト教は、かつてにも増して、今日の世界から遊離した、現実感のない存在になってしまった。
ここで、私の友人の宗教体験を一つだけ挙げておきたい。
奥多摩に登山に出掛けた彼は、途中で道に迷い、山頂から下る途中で日が暮れ始めた。疲れたので少し休もうと、尾根の途中で腰を下ろした時、夕暮れの柔らかな光に包まれる体験をした。
その時ふいに、「柔らかな暖かさで、全身が包まれた。平和で、安らかで、心に包まれていた」といい、同時に「自分を生んだ『存在』そのものの、やさしさ、あたたかさに抱かれているのを体験した」と語ってくれた。
こうした体験は、彼ひとりの特別な体験ではない。似たような宗教体験は他にも数多く報告されているが、それはここでは割愛する。
ここで決定的に重要なのは、彼にとって「神」が、「存在そのもののやさしさ」として立ち現れた、という一点である。
ところが、この事柄をカトリック要理の箇条書きに沿って「整理」し直した途端、すべては「無味乾燥な概念のかけら」に分解されてしまうだろう。
条文としては整っているのかもしれない。しかし、そこから「存在そのもののやさしさ」は、きれいにこそげ落とされてしまう。
さらに、もう一つ見逃せない点がある。
例えば「神」との関係にかかわるカトリックの定型文として、「天国」「地獄」「煉獄」といった言葉がある。そこでは、神は、罪人を地獄に追いやる方であり、洗礼を受けていなければ、誰もが罪のうちにあり、神から断罪される、といった教えが繰り返し語られてきた。
こうした図式は、長い年月にわたって、信徒を精神的に縛り上げるための格好の”武器”として、教会の手の中で使われ続けてきたのである。
しかし、聖書を開けば、イエスは十字架上で隣にいた盗賊に向かって、「今日、あなたは私と一緒にパラダイスにいる」と告げている。
この盗賊は、洗礼はおろか、教会なんてものとは無縁だった人間だ。
それでもイエスは、彼を恐怖でねじ伏せるのではなく、最後の瞬間まで、神の側から受け入れている。ここでは、要理の箇条書きが想定している救いの条件が、あっさりと踏み越えられている。
私がここで、はっきりと言っておきたいのは、恐怖と脅しは、人を従わせることはできても、決して人を根本から変えることはできない、ということである。
人は、自分の弱さや罪深さに、本当に深く気づかされたときにしか、内側から変わることはない。
恐怖と脅しに追い立てられて生まれた「悔悛」は、たいていの場合、状況が変われば、あっさりと「翻意」へとひっくり返る。そのことを、教会は本当は知っているはずなのに、なおも「恐怖」を手放そうとしない。
最後に、今この時代において、どうしても書いておきたいことがある。
ガリラヤに生きたイエスの生き方と死は、歴史学や聖書学など、多様な研究を通して、かつてよりも具体的な姿を現しつつある。にもかかわらず、「教会の権威だから」という理由だけで、その像をねじ曲げる権利を、誰が持っていると言えるだろうか。
いかなる宗教的権威であれ、その主張や制度を、不問に付したまま受け入れることは、もはや許されるべきではない。
ガリラヤに生きたイエスは、要理の箇条書きに押し込められるような人物ではなかった。
彼は、私たちを根本的に解放した人であり、その生き方と死は、教会の条文や制度をはるかに超えて、今もなお問いかけ続けている。
イエスは、恐怖と脅しによる支配へではなく、「存在そのもののやさしさ」へと私たちを開いていく、驚くべき神体験への通り道なのである。
*参考文献:ハンス・キュンク著、福嶋 揚訳、「イエス」(へウレーカ、2024年)
(東京教区信徒 纐纈康兵)