・「余白の想い」⑤ 「人に親切にする」という基本を知らずに、「愛」を説いても無駄

 このコラムで聖書の事を語るのは、少々気が引ける。何故なら、幅広く、奥深い聖書を述べるには、当方の能力を遥かに超えているからだ。だから、これから述べる事は私の私見であり、あくまで私の個人的な見解と思っていただきたい。以下は一片の文にすぎない。

 我々はこの混沌とした現実生活の中で、聖書とどの様に対峙すべきか。否、対峙と言うより、どの様に読むべきか。まあ、これは大変難しい問題だ。

 20世紀最大の神学者と言われたスイスの神学者、カール・バルトは「現実を知りたければ、新聞の三面記事を読み、それを聖書から説き起こせ」と言った。K・バルトだから言えたのであろう。

 プロテスタント教会はルターの宗教改革以来、「聖書のみ、信仰のみ、」を教会の基盤としてきたが、この「聖書のみ」はややもすれば、「聖書主義」になりはしないか、と疑問が生じる。ではカトリック教会はどうか。カトリック教会は、その是非は別にするが、「ミサ聖祭」が中心になっている。ミサ聖祭は「ミサ主義」になる可能性を内包しているだろう。「聖書主義」も「ミサ主義」も「主義」と揶揄さるのではないか。まあ、聖書主義もミサ主義も自己満足の結果であろう。では、自己満足は信仰なのか。

 こうなると、「いったい聖書の教えていることは何か」となる。これを一言で言うのはある意味で、無茶かもしれない。イエスの教えたことは「人を大切にすること」であった。これ以外にキリスト教の伝えることはないであろう。

 人を大切にすることを忘れた時、キリスト教は大きな間違いを犯すことになる。聖書主義、ミサ主義と揶揄された時、キリスト教会は大いなる反省を促されている。

 聖書の言葉が人の心に刺さり、その結果、人が大きな決意、決断をした時、その聖書の言葉は、もはや単なる言葉ではなく、それは神からの啓示となる。このことを難しく言えば、「我々の歴史と神の救済史が交叉する時」だ。それは各個人の歴史が神の救済史と交じり合う時でもある。

 先に述べた「人を大切にする」ことをもっと突き詰めると、多分、「人に親切にする」ということになる。この最も基本的なことを知らずに「愛」を説いても無駄だ。ナチス・ドイツによって命を奪われたドイツの神学者、D・ボンヘッファーの言葉に「人は良きキリスト者になるのではなく、より良い人になれ」がある。この言葉を再度思い起こすことが肝要である。

(東京教区信徒 纐纈康兵)

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2026年5月31日