18~19世紀後半にわたり、例えば、イギリスにおきた産業革命は、工業化の著しい発展により時の産業・経済に大きな影響を与えた。この近代化とも言える啓蒙思想・産業革命は、次第に全世界に広がり始めた。啓蒙思想及び産業革命は以前の時代とは異なり、所謂、パラダイム乃至はフェイズが新しくなり、時代が新しい段階、又は、新しい時に突入した事を意味した。こうした状況下で教会はどのような姿勢を保ったのであろうか。
ヨーロッパのプロテスタント教会の伝統的な教えでは、この近代化を乗り越えることは不可能、と思われた。だが、こうした時代的背景のもと、19世紀後半から20世紀にかけて、プロテスタント教会には近代化を乗り越えるべく、数多くの神学者が表れた。
では、当時のカトリック教会はどうだったのであろうか?カトリック教会はプロテスタント教会とは全く異なる方向に向かった。それは教会が新たな「教理信条」を発令したことにある。
①教皇ピオ9世、1854年、マリアの「無原罪の御宿り」が教義として公認
②教皇ピオ9世、1870年、第1バチカン公会議、「教皇不可謬説」を決議
③教皇ピオ12世、1950年、「マリアの被昇天」を公布
上記の「教理信条」等は、ハンス・キュンクによれば、充分な討論、協議を経ることなしに決定された、と明言されている。そこには「神学者」はもとより、「見聞豊かな学者」さえ隣席していなかった、とのことだ。そして…
①「マリアの無原罪の御宿リ」は、イギリスの枢機卿ジョン・ヘンリー・ニューマンに「贅沢な教義」と皮肉を込めて注釈された。
②「教皇不可謬説」に関して、ドイツ、フランス、ハンガリー、アメリカ等の枢機卿たちは「協議するに値しない」と、それぞれの国に帰国した。時の教皇ピオ9世は、イタリア、スペインの高位聖職者をできるだけ多く集め「不可謬説」を決議した。
➂ 「マリアの被昇天」は教皇ピオ12世と数名の高位聖職者によって決定された。
これら三つの「教理信条」の根拠を聖書から積極的に見出すことは、ほとんど不可能である。ただし、超保守的なバチカン寄りの聖書学者の見解は判断できない。
最後に、こうした硬直した教義が、近代ヨーロッパの想念を超えていた、とはとても思えない、と付け加えておく。なおカトリック教会は、トレント公会議(1545~63年)で、聖書と聖伝を教理の根拠にした。
*参考文献:H・キュンク著、福田誠二訳「キリスト教、本質と歴史」教文館、694~706頁、参照。