ヨハネ福音書が、新約の司祭職を中心テーマとして書かれたのではないかと考えて、考察をしてみようと始めたのですが、その冒頭の記述から創世記に引っぱられ、今に至っています。でもそのおかげで、ヨハネ福音書に父の名の記載があまりに多いことの理由に辿り着いたことは、大きな収穫でした。
創世記で「善悪の知識の木から取って食べることを人に禁じられた神は、私たちの父なのだ」と捉え直してから、3章で神に背いた初めの二人の物語や、4章でカインの殺人事件を読んでみると、そこには、子供たちの後始末に追われる父の姿と、罪を犯してしまった子にきちんと向き合い、「何とかして救おう」とする父の姿が見えてきました。
この理解は、イエスが最期の食卓で祈った「私は彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました」(ヨハネ福音書17章12節)という言葉の意味に行きつくものでした。このイエスの言葉は、私たち信者にとって、神を父と呼ぶことそれ自体に、計り知れない可能性が秘められていることを示唆しています。
そして、「私と父とは一つである」(同10章30節)と言われたイエスの言葉によって、私たちが神を「天の父」と呼ぶことはイエスを呼ぶことでもある、ということになるのです。イエスの名には、天使が夢でヨセフに告げた秘められた意味である「この子は自分の民を罪から救う」ということと、その名の在り方である「神は私たちと共におられる」ということが、イエスにおいて同時に実現されたという事実が込められています(マタイ福音書1章21~23章参照)。
イエスは、この事実を計画された神を、天の父と呼ぶように求めておられます。ヨハネ福音書に、「私たちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを与えられた」(ヨハネ福音書1章16節)とあるのは、イエスが私たちに、神が父であることを徹底的に記憶させようとされたことにあったのだと思います。そして、イエスご自身が、父から遣わされ、父を現す方なのです。
神は、私たちの父です。イエスの言葉によって育まれたその感覚は、「言(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた」(1章12節)とある、「神の子となる権能を与えた」というところに注目させます。
私たちはイエスの養成に応えて、神を天の父と呼ぶことで、その恵みに答え、イエスを受け入れ、その名を信じて、授かった「神の子となる権能」を守ることができます。私たちには、守るものがあるのです。そのために神を天の父だと自覚することが、新約の司祭職を与えられた民であることのしるしなのだと思います。
私たちは、黙示録のヨハネと共に、「私たちを愛し、その血によって罪から解放してくださった方に、私たちを御国の民とし、またご自分の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(黙示録1章6節)と祈ることができるのです。
(横浜教区信徒 Maria K. M.)