・「パトモスの風」 ⑫創世記の流れをゆっくり眺めてみると…

 「創世記の流れをゆっくり眺めてみるのはいいかもしれない」と思い立ち、まずは新約聖書を開きました。すると、「父が私を愛されたように、私もあなたがたを愛した。私の愛にとどまりなさい」(ヨハネ福音書15章9節)という御言葉が目に飛び込んできました。「これはやっぱり創世記を見ないといけない」と思いました。

 御父は御言葉となる御子を愛され、その愛で私たちを愛してくださる。御子イエスが、「私の愛にとどまりなさい」と言われる「愛」は、イエスの名によって遣わされた聖霊のことだ。そして、イエスがこのように話された原点が創世記にあるはずだ…

 こんな気持ちで創世記を読み始めて、すぐ目に留まったのは、創世記1章と2章に見られる神を表現する言葉の違いでした。1章の初めから2章の3節までは、「神」ですが、2章の4節から終わりまで「神である主」と表現されています。

 1章では、「初めに神は天と地を創造された。地は混沌として、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』すると光があった」(創世記1章1~3節)と書かれた初めの文脈から、父と子と聖霊の関係の中で働く「神」の姿を思い描くことができます。

 次に、「神」から「神である主」に言い換えられたその変わり目は、2章の「神である主が地と天を造られたとき、地にはまだ野の灌木もなく、野の草もまだ生えていなかった。神である主が地上に雨を降らせず、土を耕す人もいなかったからである。」(創世記2章4~5節)という箇所です。「土を耕す人」、それは、人を創造された神が、「産めよ、増えよ、地に満ちて、これを従わせよ。海の魚、空の鳥、地を這うあらゆる生き物を治めよ」(創世記1章28節)と人に命じたことが実現されるために、神が初めに設定した人の在り方でした。

 神はまず、人が従わせることになる地に仕える者となることを望まれたのです。そのために神は、人に「命の息」を吹き入れて、人が霊を持つようにされました。それは、神の似姿として創造された人が、聖霊とつながり、神との関係性の中に置かれるためでした。このとき表現されている「神である主」は、御父と御子の関係を言い表していると思われます。

 神と人との関係性におけるこの状態は、私たちがミサの中で、ご聖体を前にして、聖霊と共にミサに与っている状態とよく似ています。イエスは、この状態をミサにおいて、私たち信者に取り戻してくださったのではないでしょうか。

(横浜教区信徒 Maria K. M.)

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2026年6月1日