10月に約一か月かけて行われた世界代表司教会議(シノドス)第16回総会第一会期の総括文書を読んでの第一印象は、地方段階、大陸段階の報告が人々の切実な思いが伝えられるものだったのに対して、上から目線の、教えようとする、やはり、これまで通りの”司教文書”だ、ということでした。
それでも、この文書を3回、メモを取りながら読み返していくと、慣れてきて、下からの声を教会運営に反映させよう、具体化のための審議や研究を継続しよう、という意志が込められている、と思うようになりました。文中にもあるように、これは最終文書ではなく、「今後の識別に役立てるための道具」ですが、これをステップにして次の第2会期が持たれるのですから、丁寧に読む価値はありそうです。
*表面的には逆ピラミッドの教会にみえるが・・・
「シノドス的教会の歩みは、神が第3千年期に期待しておられる歩みです」(教皇フランシスコ)。この言葉に始まった”シノドスの道”、共に歩む教会、第2千年期のヒエラルキーとは異なる逆ピラミッド型の教会という「下からの教会」、それを援助する組織構造に変わっていかなければならない(補完性の原理に従って!)、それが神の意思であると教皇も言い、われわれも希望を持ちたいが、今回の総括文書に、これからの教会が「下からの教会」、「逆ピラミッド」に変わりそうな気配はあるだろうか。
とりあえず、第2部は「全員が弟子、全員が宣教者」という見出しで始まり、教会の構成員全体を述べたものなので、ここを見ていきます。全体は、8「教会は宣教(使命、派遣)」である」、9「教会の生活と宣教における女性」、10「奉献生活、信徒団体、信徒運動:カリスマ的しるし」、11「シノダルな教会における助祭と司祭」、12「教会の交わりにおける司教」、13「司教団体制におけ
るローマ司教」となっており、記述の順序は逆ピラミッドになっています。内容はどうでしょうか。地方教会のトップである「司教」の項を見てみましょう。
*司教の働きと権限は何か
まず、12「教会の交わりにおける司教」の<一致した意見>のうちa,b,cを見てみます。 地方教会における、そして全体教会との関係の中での司教の働きと権限が述べられているからです。
aについて; 司教は使徒たちの後継者として「交わり」の奉仕に当たる存在であるとし、地方教会では教区民、司祭団、修道者などとの交わりの、そして他の司教たちやローマ司教との交わりの奉仕に当たるとする。
*言葉だけの<シノダル>にみえる
bについて; 司教は福音宣教と典礼祭儀の責任、キリスト者共同体を導き、貧しい人々の司牧ケアをし、各種各様のカリスマと役務を識別し調整する仕事を持つ。特に新しい点はない。「一致の見える原理」が司教だと言うが、要するに司教自身の考えで全体が調和するように決めるということ。
「この役務はシノダルな仕方で実行される。すなわち統治が共同責任によって担われ、信仰深い神の民に聴くことによって教えを説き、謙虚さと回心によって聖化と祭儀執行がなされる時、シノダルな仕方といえるのである」 教会憲章20項などで、司教は統治、教え、祭儀の3つの権能(権力)を持つというのは周知の事実で、新しいことではない。なぜ「シノダルな仕方」と言えるのでしょうか?
「共同責任によって担われ」は司祭団と一緒に、あるいは教区の司牧評議会などの諮問を経て、といったこれまでの組織の働きを念頭に置いているようです。また「神の民に聴くことによって」教えを説くという。どこで聴くのでしょうか。その機会をどこに設けるのでしょうか。法的、制度的な裏付けもなく、曖昧です。そして「謙虚さと回心によって」ミサその他の典礼祭儀を行なうこと、それらが「シノダルな仕方」なのだと言う。
このシノドス参加メンバーは本気で言っているのでしょうが、典礼に心を込めることがシノダリティとは言えないでしょう。もっと信徒が能動的に参加できるように、典礼のあり方を変革することがシノダルな教会になるということではないでしょうか。
*「すべての人々」=信徒はどこにいるか?
cについて; 次に「司教は地方教会で、シノダルな過程を生かし活性化していくという不可欠の役目を持っている」とし、「<すべての人々の、幾人かの、一人の>間の相互性を促進しながら・・・全信徒の参加、及び、より直接に識別と決定の過程に関わる幾人かの貢献を重んじることによって」とあるが、全信徒はどこでどのように参加するのでしょうか?また「幾人か」というのは、教区の司祭評議会や司牧評議会などでしょうが、主たるメンバーは司祭であり一般信徒はわずかな人数にとどまるのが実情でしょう。
以上の内容で「シノダルな過程を活かして」いることになるのでしょうか。「シノダルな過程」は文章の単なる装飾句、読者を惑わす言葉にしか思えないのですが。
*ヒエラルキーの下のシノダリティにすぎない
そして最後の一文「司教自らが採用するシノダルなアプローチ(取り組み方)と、彼が行使する権威の様式は、司祭と助祭、男女の一般信徒と奉献生活者がどのようにシノダルな過程に参加するかに決定的に影響するだろう。司教は全員のためのシノダリティの範例として召されている」 要するに、どのようなやり方がシノダルなのか、また教区民に提供されるシノダルな方法がどのようなものなのかは司教が決めるというのです。
規範は司教にあるということです。これでシノダリティと言えるのでしょうか。これまで幾つかのシノドスに関する基本的な文書にあった中世の伝統「すべての人に関係することは、みんなで決められるべきだ」という原則は忘れられているように思われます。
*司教の考え次第で決まる
以上、12「教会の交わりにおける司教」のa,b,cを見てきましたが、大略すると、シノダリティの内容、従って定義も、司教の考えに沿って決まっていきそうな気がします。またこれまでの体制を変えることなく(ヒエラルキーの権力もそのままで)、ただシノダリティの精神をもって司教は教区を運営していく、ということらしい。自ら進んでシノダルにしていこう、と取り組む司教がいればの話になりそうです。ボッカルディ前教皇大使の言葉「教会位階こそが神の民の中に身を置き、すべての信者の声に耳を傾けながら、信者の一人として生きていくよう招かれているのです」がむなしく響いてきます。
*神の意思を知るには<民の声>に重点をおくべき
第1部 2 f は三位一体の中の交わりと派遣から神の民のあり方を導きだそうとしていると筆者(西方の一司祭)は思います。父なる神の意思を知るためには「まず、聖書に記されている神の言葉に耳を傾けること、伝統と教会の教導職を受け入れること、そして時代のしるしを預言的に読み取ることの関係を、明確にする必要があります」と。伝統と教導職を受け入れることと言うのは上から目線であり、少し違和感を感じないでしょうか。
これとほぼ同じことを前にも紹介しましたヘルダー社刊特集号にThomas Söding(*)が論じていますので簡略に紹介しますと—頂点に立つ一人の人がすべてを決める<ピラミッド>のイメージではなく、ガリラヤ湖で漁師が打つ<網>のイメージで考える。考えるべき幾つかの観点はそれぞれ孤立して存在しているわけではなく、緊密に関係し合う全体の複数の接合点のようなものである。
第一に、神の言葉である聖書。旧約から新約へ歴史的に動的に発展している。私たちの解釈も時代に応じて発展する余地があるだろう。
第二に伝統(伝承)。これも硬化したものではなく生命で満たされなければならない。Overbeck司教(*)の言葉によると「伝統」は動的な概念で、その核心において信仰の生ける伝達を持っ
ている。
第三に「時のしるし」。元々はマタイによる福音書第16章3節にある言葉ですが、第二バチカン公会議文書の数か所に見えます。重要なことは「時のしるし」は教会の外でも「聖霊のしるし」としてあり得るという点です。
そして第四に、「神の民の直観と声」です。これが忘れられかけているのではと危惧されます。神の民は「信仰の感覚」をもって真実を求め、うめいています。Vox populi vox dei(民の声は神の声)という格言をシノドス参加司教さん方はもっと重く受けとめるべきではないでしょうか。
そして最後五番目に教導職Magisteriumと神学がきます。教導職の役割は信仰の単純かつ人を解放する真理を証言し、教会の素朴なメンバーに仕えることです。多様性が活かされるように「ローマのシノドス事務局が『自分たちは地方教会をシノダリティの創造で支援します』と言ったのは良いことである」とフランク・ロンジ(*)も言っていました。
すべての人の中に「神からの種」は蒔かれています(『現代世界憲章』3)から、文化内に受肉した神学が求められていると思います。こういう訳で、シノドス参加司教さん方はもっと「民の声」をしっかり聴いて受け止めることが大切ではないでしょうか。そもそも司教中心の会議というのが、もう古すぎるのではあり、信徒も半分入れるべきでしょう。司教シノドスから神の民全員のシノドスに変化しなければならないと思われます。
今回の総括文書、希望を持てる点も幾つかあると思いますが、今回は課題が残る点を述べました。
注*Thomas Södingはボーフム大学新約学教授で国際神学委員会のメンバー(2004~2014)、またドイツカトリック者中央委員会の議長。フランク・ロンジはドイツ司教協議会で教義と教育部門のトップ、またドイツシノドスの道で事務局を指導する。 https://www.synodalerweg.de参照
*Overbeck司教については10月29日付けドイツ司教協議会のプレスリリース参照。第一会期終了直後に数名の参加司教と共に感想を寄せている。
(西方の一司祭)