“シノドスの道”に思う⑯その2「今年6月に発表された『ローマの司教』を読む」

  バチカンのキリスト教一致推進省が発表した150ページほどの文書『ローマの司教』を少し紹介します。バチカンのシノダルな取り組みの一端を知ることができるからです。

 

*ローマの司教(教皇)が「ペトロの後継者」であるとは・・

 

 キリスト教会の歴史の中で、最も自分を偉いとして権力を振るってきたのは、やはりローマ教皇ではないでしょうか。シモン・ペトロにイエスは「私はこの岩の上に私の教会を建てる。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上で繋ぐことは天上でも繋がれ、地上で解くことは天上でも解かれる」(マタイ福音書16章16節)と言いました。歴代のローマ司教は自分こそ「ペトロの後継者」であり「ペトロの首位権」を持っていると主張しました。のちに教皇の紋章や三重冠には金と銀の鍵が交差して描かれますが、これは天国の鍵(霊的支配権)と地上の鍵(地上支配権)でしょう。

 4世紀以降、ローマ教会には土地の寄進もなされ、5世紀、ローマ教皇は自らを「ペトロの代理者」と名乗り、8世紀には世俗的な領土として教皇領ができます。9世紀のニコラウス1世教皇は地上における「神の代理者」かつ聖俗領域において最高権能を持つと主張し、11世紀のグレゴリウス7世教皇は「キリストの代理者」として世俗権も教皇に従うべきと主張しました。1870年のイタリア統一以降、教皇領はなくなり、現在、バチカン市国となり、ローマ教皇はその元首の地位にあります。従って、ローマ教皇は、世界のカトリック教会の最高権威者であり、ローマ司教であり、バチカン市国の元首です。

 

 

*『ローマの司教』の副題は・・

 『ローマの司教』の副題は「首位性とシノダリティ:教会一致の対話における、また回勅『一つになるように』に答えて」となっています。回勅『一つになるように』はヨハネ・パウロ2世教皇が教会一致を目指して出したものです。教皇パウロ6世は「教皇(の存在)はエキュメニズムにとって最も深刻な障害である」と言いました。

 この『ローマの司教』という文書を読むと、バチカンがたくさんの対話を諸教会や団体と重ねてきたことがわかります。回勅「一つになるように」への諸教会の約30個の応答文書があり、そして約50件のカトリックと正教会やプロテスタント教会諸派との対話文書が元になっていて、それらを要約したのがこの『ローマの司教』です。長い時間を掛けて、謙虚に話を聴く姿勢で対話をしているのです。

 カトリック教会の内に向けてのシノダリティの実践があり、外に向けてのシノダリティの実践がここに示されています。東方正教会、古カトリック教会、ルター派教会、イギリス国教会、メソディスト教会などなどと「共に歩む」シノダリティの実践がなされているのです。外へ向けてのシノダリティの実践なしにローマ教皇の「首位性」の主張はできないからです。外に向けての取り組みには教皇の諸教会訪問旅行や巡礼などがあり、また諸教会をローマに迎えて共に祈るなどの活動も含まれます。

*シノダリティとエキュメニズムは並行して進む

 『ローマの司教』は近年のエキュメニカルかつシノダルな働きの結果です。パウロ6世は「教皇の首位性」を奉仕と愛の首位性として提唱しました。またもっと団体的な方法で首位性を行使するために「世界代表司教会議(シノドス)」を設立した。その第16回目の通常総会が今回の総会です。ヨハネパウロ2世は回勅『一つになるように』で首位性を一致の奉仕と愛に仕えることとして理解しました。教皇フランシスコは、キリストにおける全信者との対話に開かれることなしに「ペトロ的奉仕」は理解できない、とされ、シノダリティを重視されています。神の民の「信仰の感覚」に基づいたシノダリティです。

 以下、カトリック教会と他の諸教会でどのような対話がなされたのか、一致する最大公約数的な点を紹介します。

*首位性(首位権)に関する4つの問題点

 教皇の首位性・首位権の性質とその行使に関して4つの神学的な問題点があります。諸教会によって理解や解釈の違うところです。

 1, 首位性の根拠とされるペトロ的奉仕の聖書的基盤 2, 首位性は神法か否か  3, 統治権・裁治権の首位性  4, 教皇の不可謬性

 かつてローマカトリック教会は新約聖書のペトロの箇所を、ローマ司教の奉仕と直接関係させて理解してきました。特にマタイ福音書16章17~19節とヨハネ福音書21章15節以下。教父たちの著作の中で、ペトロに関する箇所は3世紀の初めから色々に解釈されて登場します。

 イエスがペトロに向けて語った言葉は、信じる人の信仰ゆえに、すべての人に向けられている、また使徒の後継者である司教たち全員に向けられている、との理解も。あるいは、使徒ペトロという個人・人格そのものに向けられている、なぜなら彼が教会の岩・基礎とされたから、などの解釈があります。さらに、マタイ福音書18章18節では「司牧的指導者の責任は、ペトロに限らず、すべての弟子たち」に約束されている。エフェソの信徒への手紙2章20節では「使徒団全体」に与えられている。「復活のキリストによって福音宣教の使命は11人全員に与えられている」(使徒言行録1章2~8節)といった理解もあります。

*ペトロ的奉仕の後継可能性の問題

 カトリック教会では、教皇自らが「ペトロの後継者」であると主張しますが、新約聖書でペトロの指導的地位を譲り渡す、後継を定める、といった明確な記述はない。また一般的に使徒的権威を委任・継承することを明確に書いた聖書個所もない、との見方もあります。 また、新約聖書にみえるペトロと、ローマ司教の働きを結びつけることは難しい。ペトロ的役割は必ずしも特定の座、特定の人と結びつかない一般的な概念ではないか、との考えもあります。

 相互の助け合いや宣教の協働を促進することで、教会の一致を維持・促進することがペトロ的役割であり、奉仕であると。イエスは他者を支配するのではなく仕えること(ルカ福音書22章24節以降)を弟子や使徒に求めました。「初めになりたい者は最期の者にならねばならない」というイエスの教え(マルコ福音書9章35節)。だから権威は十字架の神秘とキリストのケノーシス(自己無化)と分かちがたく結ばれています。

 「真に導く」とは、「他者に仕える」ことであり、「支配する」ことではない、というイエスの教えに従ってペトロの役割も考えねばならない、との意見もあります。ディアコニア(奉仕・世話・仕えること)は愛の奉仕であるので、権威・権力とは違うのでないかとの意見もあります。

*首位性は神に基づくものか、人に基づくものか・・

 第1バチカン公会議は、ローマ司教の首位性は神法によって設立されたので、それは教会の本質的かつ取り消すことのできない構造である、と教えています。また第1バチカン公会議で教皇の普遍的な支配権の教えと、不可謬性の教義は一緒にドグマとして宣言されました。

 しかし他の教会は、この「神的法による設立」という観念を伝統的に拒否し、また争ってきました。これは西方教会が歴史の中で主張し発展させたものにすぎない、と。東方の諸教会はローマ司教には「名誉の首位性」を認めるが、この首位性は歴史的な展開によってできた事柄であると考えます。従って神的ではなく人的な設立であると。

 「神的設立」という用語(表現)がキリストによってそれが立てられたとか、それが聖書の証言であるとか、言うのではなく、「奉仕として仕えること」としての神的設立でなければならない。また「普遍的な首位性」がキリストによって立てられたとか、普遍的首位性が教会の源泉であるので、それなしでキリストの救いは与えられないといったことを神法は意味してはいない。司教の団体性と首位性は相互に関係し、不分離であることが神的設立であると考えるべきであろう。また「神法による」と「人法による」を分けることはできない。神法は人間の歴史によって仲介されるから、などなどの意見があります。

*不可謬性について

 「不可謬性」については第1バチカン公会議の言葉は、第2バチカン公会議の啓示憲章と教会憲章の理解の仕方で再解釈されねばならない、とカトリックも諸教会も考えています。すなわち、教会の教える職務は、神の言葉の上にはなく、神の言葉に仕えることにあると。「不可謬」とは、信じる事柄において誤ることができないのは信者の全体であると。

 またローマ司教の首位性・首位権を認めるか否かは、まず「神の民」がそれを認めるか否かにかかっています。アングリカン(イギリス国教会)などはそれを認めません。ギリシャ正教会も、神の民によって認められたものが、教会(公会議など)の決定の信仰上の不可謬となると。その意味で、エキュメニシティはシノダリティの有無にかかっています。

*統治権・裁治権の首位性

 キリスト教の初めの千年間、東方の諸教会もローマの司教の「名誉の首位性」は認めていました。ローマ教会は上級審的な役割も果たすことが多かったので、ローマの権威は認めていましたが、「教会の統治の権威」を認めたわけではありませんでした。しかし今回のある対話で、「名誉の権威」は単なる名誉的な優位ではなく「実際に決定を下す権威」である、とし、「名誉」は実際の責任性と権威を含むことを認める、とする理解もあります。

 なお、諸教会の交わりのあり方に関しては4世紀の「使徒的カノン34」(アンティオキア教会の規則集成の一部)が参考になると言います。すなわち、首位者と他の司教たちとの関係に関してですが、<司教たちは首位者を認めねばならない。重要なことは首位者なしに決めてはならない。各司教は自分の教区に関わることだけをすることができる。しかし首位者は皆の同意なしに何をすることもできない。> 首位者と他の司教たちの相互依存関係のあり方の一つのモデルがこの「使徒的カノン34」ですが、これはローマ司教と司教たちの関係にも言えるでしょう。

*首位性はシノダリティの一部である

 1人(one)、数名(some)、全員(all)の関係を上下関係ではなく網の目のようなネットワークとして捉えることが第2会期の討議要綱第3部「場所」の個所で述べられています。ここで、首位性と公会議性は、エピスコぺ(監督)の相補的な要素ですが、同時に、神の民全体の参加がなければ、交わりの教会とはならないでしょう。

 「首位性はシノダリティの一部である」ことを忘れてはなりません。それゆえ、権力の行使が自発的に限定されること、また教皇の栽治権の行使の限界のため、団体的統治の機関が有効に機能することなど求められます。チェックアンドバランスが必要です。またある対話で言われているように、(現行の)司教シノドスに加えて、カトリック教会の普遍レベルで、一般信徒も加えた新規「全体司牧協議会General Pastoral Council」を創設することも必要でしょう。

*将来の一致した教会では・・・

 さて将来、普遍的レベル・世界的レベルで和解が実現した教会ができた場合、一致の奉仕はどのように行使されるのでしょうか?そこで、全教会のための首位性は必要であるか否かが、種々の観点から考察されました。

 名誉の首位性、同等者間の首位性という意味では必要との見方もあります。「権力の首位性」ではなくです。かつて4世紀から7世紀において5つの総大司教座がありました。現在はローマの司教座のみが「監督」を今も行使しています。ローマはペトロとパウロが亡くなった地でもあるので、将来の一致において普遍的首位性をローマに認めてもよい、との考えもあります。司教としての権威は他の司教たちと同等である、どれか一つの司教座を中心とする必要はないが、将来の一致を考える時、一応、ローマを中心として考えてもよい、との意見もあります。

 従って、全教会の等しい「交わり」の中に組み込まれた首位性でなければならず、たぶん「裁治権の首位性」が認められるには、相当の制限が必要でしょう。また、もし再合同した教会ができて、そこでローマの司教がその公会議を招集し主宰できれば、ローマ司教は普遍的役割を果たすことになる、と言えるでしょう。

 (西方の一司祭)

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2024年9月28日