最近は至る所で、大きく捉えて「二極化している」と言われている。
自分ではどうにもならないと思う問題等も多いだろうが、その場その場で自分の考えを問われた時には、今の状況を熟慮し、過去の歴史的な流れも学んだ上でどのような答えを出すべきか、真摯に考える必要があるのではないだろうか。
相手がある問題には決して一方的な判断をしてはならない。反対側の意見を十分聞くことは隣人を愛するための基本だろう。答えを出すための過程こそ大切であり、自分自身が成長するためにも、人の意見はありがたいと思っている。
教皇はシノドスへの取り組み方や感想等を精力的に発信されているが、少なくとも今年に入ってから所属教会でシノドスの『シ』も、誰からも聞いたことがない… バチカンは遠い。
「カトリック・あい」で「ドイツ司教団の信徒によるミサ中の説教の特例許可申請をバチカンが却下した」という記事を読んだが、私たちの地区は(豊かなのか?)ミサ司式者が司祭であっても、助祭や修道者が説教をする。また、信徒による集会祭儀が行われていた小教区は信徒が説教をしていた。説教に関しては、いろんな状況から与えられた方法があるのは存じてはいるが、このように”自由”にやっていいものか、今一度、説明が欲しい。
また、バチカン典礼秘跡省が説教に関して、司祭の「継続的な要請を促進することの重要性」を強調したとあるが、是非ともそう願いたい。
カトリック教会は、位階制度があるので二極化にはならない、と私は思っている。第二バチカン公会議で「教会の刷新」が求められ、当初は日本の教会でもさまざまな場面で聖職者や信徒が対等な立場で議論し結論を出すこと行われたようだが、最近はそうしたことがなくなってきているように思う。
そこにいる人(信者)によって、教会のイメージが違うことも分かっている。私が持つ聖職者のイメージの修正が求められているのも、分かっている。全て人間の問題であることも分かっている。しかし、宗教には自分が持つイメージが大切ではないのだろうか。
私は、オーストリア・ウィーン出身の哲学者で英ケンブリッジ大学教授だったウィトゲンシュタインに興味津々である。彼がキリスト教の信仰を持っていなかったのは明らかであるが、非キリスト教的でもなかった(母親はカトリックで彼にも洗礼を授けているが)。
彼の文章はどこか私的な雰囲気があり、箴言集のようでもある、と言われている。ウィトゲンシュタインは狭い意味での哲学者というよりは、哲学、宗教、詩にまたがった作者の方に深い感銘を受け、なによりも芸術への関心にも積極的に実践する人物であったことが、私には大層な魅力となっている。
西洋哲学は、「芸術とは?幸福とは?」と単純明快な本質の定義を求めがちだが、ウィトゲンシュタインはさまざまな概念から全体として一つのまとまりを構成する穏やかな類似性を比喩的に”家族的類似性”と呼んでいる。これは、私にとって納得のいく表現である。
ただ、私は西洋の文化や言葉を100%理解できていないため、西洋哲学やキリスト教の『本質』も、どこまで理解できているのかが問題である。永遠の課題であろう。。
「聖書に書いてある天国とか神の国とは、どこか知られざる場所にある特殊な国や国域を指しているわけではない。どちらの国にしても愛が充ちている場を意味している。だから、ここに二人がいて愛しあっているならば、まさしくそこは天国であり、神の国なのだ。しかし、記載されている言葉を字義通りにしか理解できないと、宗教や倫理に使われる言葉や表現は奇妙なものになってしまう」(ウィトゲンシュタイン『倫理学講話』)
(西の憂うるパヴァーヌ)