日本はキリスト者が少ないと言われているが、それにしても、様々なクリスチャンが存在する。その一例を挙げる。
”信仰”と言っているものは、単なる妄想ではないか、と思われるような人がいる。一方、嬉しいことがあったりすると、「神さまはいらっしゃる」と喜んだりする。それ自体は悪いことではない。
熱狂的、狂信的とも言える”信仰”を持つ人は、人権侵害に対しても「これは神の御心だ」と言い出す。LGBTQ+についても、物凄く偏屈な態度である。聖書には「神の意志がはっきり書かれている」と言い、またミサ聖祭は「信仰に必要な事柄がすべてある」と言い出す。が、こうした態度は必ず他者を傷つける。そこには謙遜さはない。要するに自分達が「正しい」と思い込み、その「正しさ」を信じることが”信仰”であり、その”信仰”は絶対なのである。
こうなると、はたして「信仰」とは何なのか、と問いたくなるし、同時に本当に必要なのかと思いたくもなる。キリスト者は、自分の望んでいることを正当化するために、神という幻想を利用しているに過ぎないのではないか?
つまり、「信仰」とは逆説的に言えば、「神についてほとんど分かっていないし、本当に正しいことが何か、ということさえ分かっていないこと」を自覚するためのものだ、と思う。
ここで、言いたいことは、「人間は完全ではない」ということ。私は、「神から見れば、ひょっとしたら、間違っているかもしれない」と常に思っている。自信たっぷりの信仰は危ない。信仰が現実から離れた時、「妄想」になる。
そもそも「信仰」というこの言葉自体が好きではない。この語を分ければ、「信じて」、「仰ぐ」となる。何とも軽薄だと思う。イエスにおいて、「我が信を置く」、これで充分である。
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付言
鹿児島教区で信徒に、一方的に献金増額を要請した件。まさに司祭中心主義、至上主義ここに極まる。誰の責任か。その大半は信徒にある。日本のカトリック信徒はあまりにも主体性がなさ過ぎる。また、健全な意味での自己批判もない。
神父に対して、いい年した男が「神父さま」と呼ぶの聞いて、身震いしたことを覚えている。右顧左眄もいいところである。信徒は何時になったら主体性をもつのだろうか。主体性のない信仰、それは単なる自己満足に過ぎない。
(東京教区信徒 纐纈康兵)