・Sr.岡のマリアの風 ㉔マリアは、ためらわずに出発する「勇敢な女性」、そして・・

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 日常の「食卓の会話についていけない悶々」は、海外生活をしたことがある人なら(わたしも含めて)誰もが経験するところです。特に修道院は、一日三回ですからね。

 わたしも、イタリアで最初の一年は、そんな経験をしました。-だいたい、言葉を覚えるのは、「時間」がかかる!あたりまえだけど、いくら勉強したって、やっぱり「時間」がかかる―。

 そう言えば、Sr.Cが、ポーランドから帰ってきたとき(どこかにバスで行くとき、わたしはたまたま近くの席だった)、ポーランドで言葉がぜんぜんわからなくて、重度の障害をもって、話しが出来なかったり、難しかったりする子どもたちが、どんな気持ちなのか、と初めて分かったような気がした、という話をしていて、なぜかそれがいまだに心に残っています。

 ローマで勉強していた、日本人の神父さまが、日本では役職についていて、ある程度の責任を任せられていたけれど、ローマに来て、とにかく言葉が分からないから、赤くなったり白くなったり、まるで若造のよう。40歳過ぎたら、自分のやり方、考え方に固執しがち。そんな中で、こんな体験、なかなか「出来る」もんじゃない。まさに、「恵みの時」だ!と言っていて、それもよく覚えています。

 まあ…そういう言葉を何で忘れないかと言えば、わたし自身、そういう経験をしていたからです。ホント、言葉ばかりは、勉強によるのではなく、「共に生きる」ことで学ぶのだ、と。

 他人事みたいに聞こえるかもしれませんが、経験者として、「今しか」経験できないことだ、と言っておきましょう。そして、おそらく「永遠に」、パーフェクトに理解することは無理。これも、言っておきますね。わたしも、イタリア語をパーフェクトに理解することは無理です。特に、日常会話は。
そんな中で、言葉にならないところを、いたわり合って、理解しあっていくのが、パパ・フランシスコが言うところの、異なる他者と、互いがもっている宝を分かち合う、ということですね。

 まあ、日本語は、ヨーロッパ語と、ぜんぜん違うので、だいたいヨーロッパで勉強している日本人は、最初の一年は、ありとあらゆる「誘惑」を受けます-孤独、自己嫌悪、人間不信、会話恐怖症…-。

 それらの誘惑が起こった時、「こんな誘惑をわたしは感じている、情けないな~」…などという心の動きを、ありのまま受け取っていけばいいのだと、わたしは経験しました(あくまで、わたしの場合)。誘惑自身は、いいことでも悪いことでもなく、自然なことですから。それを隠したり、ないかのように振る舞ったりするときに、「うそ」が生まれます。「うそ」の中で生きているときに、わたしはだんだん、神さまからも、人々からも離れてしまうのだと思います。

 だいたい、生きていれば、言葉だけでなく、いろいろなことで、「通じない」経験はありますね。
わたしは、むしろ、ローマでの経験から、「通じない」とき、心の中のさまざまな「誘惑」、心の中の動きを落ち着いて見つめて、それらを全部、神さまのもとに、イエスさまのもとに持って行く、ということを学びました(いつも実行できるとは限りませんが…)

 そして、イエスさまの前にありのままで出て(聖堂でなくても、道を歩いている時でも、仕事をしているときでも、心をイエスさまに向けて)、「イエスさま、わたしは今、こんな風に感じています。いけない、と思うけど、どうしても、こんな誘惑がざわざわと心を騒がしています。イエスさま、罪人のわたしをあわれんでください!イエスさま、こんなみじめなわたしを、放っておかないでください!この誘惑に負けないよう、あなたの解放の力をください!」と祈ります。

 先日の福音で、皮膚病を患った人の、全人格から絞り出すような嘆願を聞きましたね。「わたしを、清くしてください!」という叫び。誰も、わたしを清くすることは出来ない。

 神さましか、出来ない。イエスさま、あなたなら、あなただけが、わたしを「清く」することが出来る…という、必死の叫び。この叫びを、特に、四旬節の間の、わたしの祈りにしたいと、切に望みます。

 マリアは、天使のお告げの後も、すべてが分かっていたわけではありませんでした。むしろ、「闇」はますます深くなる。目の前に起こる出来事、イエスのことば、わざ…は、マリアにとって、すべては分からない「神秘」であり続けました。

 それでも、マリアは、信じました。マリアの心の中で、どんなに大きな「誘惑」が起こったことか、と思います。イエスでさえ「誘惑」されたのですから、人間であるマリアは、なおさらです。でも。マリアは、その誘惑に屈しませんでした。あきらめませんでした。

 それは、マリアが、自分が貧しく、小さな者であることを知っていたからだと、わたしは思います。マリアは、神が自分を選んだのは、自分が小さな者であるから、神にしか頼れない貧しい者であるからだ、と知っていました。なぜなら、それこそが、旧約聖書の中にうかび上がる「神のやり方」ですから。まさに、その、「みじめな者、身分の低い者」に、いつくしみのまなざしを向ける神への信仰を、マリアは、「マニフィカト」の中で歌います。

 マリアは、ためらわずに出発する「勇敢な女性」、深く考えることができる「知恵あるおとめ」…神の「たまもの」を「受け入れる」ことを知っている「信仰の母」…。

 Sr.Jの「旅」の仲間である、ポーランド共同体の姉妹たち、修道会のすべての姉妹たち。その、すべての姉妹たちの傍らで、母マリアが、いつも執り成してくださいますように!

 喜びが、希望が、信仰が、愛が欠けるとき、イエスに執り成してくださいますように!…「彼らにぶどう酒がなくなりました」「この人(イエス)の言うことは、何でも行ってください」…

 わたしたちの四旬節の歩みを、主が豊かに祝福してくださいますように!

 祈りつつ。

(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)

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2018年2月15日 | カテゴリー :