***今回は、「金曜日の独り言」***
分かりやすいな~。
パパ・フランシスコの言葉を聞いていると、ひじょうにしばしば、こう、思う。
パパは、「分かりやすい」表現で、けっこう複雑な問題を言い表している。この「一人息子の誘惑」という表現も、とっても「ストン」と来て、分かりやすい。読んでいて、思わず、「分かりやすいな~、なるほど」と声に出す。
パパ・フランシスコは、司牧訪問先のペルーで、「奉献(聖別)された人々」(パパはこの言葉の中に、広い意味で、司教、司祭、奉献生活者、神学生たちを入れている)に、わたしたちの時代の「細分化」「分断化」された世界の中で、「共同体を造り出す人、共同体の預言者」となってください、と繰り返しアピールした( 司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、2018年1月20日)。
奉献された人々は、「みなを一つに集める」ために来たイエスに、ある意味で、「より強く」「より近く」従おうとしているから。
イエスの使命、「みなを一つに集める」とは、自分の好きな人、意見が、好みが合う人のグループを造る、ということではない。イエスの傍らで、イエスの「みなを一つに集める」使命に協力するとは、まさに、「みな」、異なる民族、文化、言葉、習慣…の人々が「一つになる」よう、一人ひとり、自分に出来る限りのことをする、ということだろう。
神の民の一致を造り出すことが出来るのは、唯一の神の霊、聖霊だけである。
けれど、同時に、神が「人となった」ときから、「神は、人間の救いの営みにおいて、人無しには(人間抜きでは)、何も実現することを望まない」と、教会(わたしたち)は、少しずつ悟って来た。
「みなが一つになるように」という、受難に向かう前のイエスの、父である神への祈りは、真の神でありながら、真の人間であるイエスの唯一の願い(遺言)、とも言えるだろう。「みなが一つになる」というのは、アダムとエバの楽園からの追放の後、アブラハムの召命から始まって、神が、救いの営みの中で、ご自分の民を、そのために長い時間をかけて教育し、準備をしてきたことだ。「みなが一つになるように」というイエスの祈りの中には、ゆるし、和解、平和、愛、いつくしみ、へりくだり、優しさ…への願いが含まれている、と言えるだろう。
さて…。パパは、ペルーの「奉献された人々」との集いの中で、「一人息子の誘惑」に陥らないように、とアピールする。「一人息子」の誘惑、とは、「すべて自分のために欲しい」(または、「すべてが自分のものであるのは当たり前」)と思う誘惑、つまり、他に兄弟がいないので、分かち合うことを知らない、気を遣い合うことを知らない、という誘惑。
人は、一人で、自分を救うことは出来ない。また、世界の中で、自分一人だけ救われる、ということはあり得ない。神の救いの営みは、初めから、いつでも、「共同体的」である。
修道生活25年を過ぎ、キリスト者として、修道者として、共同体の「ありがたさ」をますます感じる今日この頃である。
それは、自分の共同体が「完璧」であるとか、兄弟愛に満ちあふれているから、という意味ではない(それを目指してはいるけれど、そのメンバーである「わたし」自身が、完璧ではないし、兄弟愛に満ちあふれているとは言えない状態は多々あるし…)。
共同生活をしていれば、自分の思うように、好きなように、望みどおりにならないことが「たくさん」ある。それも、毎日。
パパ・フランシスコは、「出て行きなさい」、と繰り返す。自分の家、自分から「出て行って」、他の人々の苦しむ顔(表情)、傷を負った顔を見て、触れて、寄り添うために。
わたしの場合、共同生活が、まさに、わたしが「出て行く」のを促し、助けている。自分の好きなように、思い通りに、「ぬくぬくと」気楽に生きることだけを求めていると、わたしはだんだん、閉じ込められ、不自由になる。そんなわたしの「ぬくぬく布団」を、共同体の姉妹たちは、はぎ取ってくれる(時にやさしく、時に手厳しく!)。自分の好きなように、思い通りに行かない生活-まさに、それが共同生活!-は、わたしが、わたしから「出て行く」ことを促し、助けてくれる。
でも、それって、不自由じゃない?
まあ、ちょっと待って。自分自身に問いかけてみよう。
「わたしの」思い通りに何でもなる世界は、「他の人」にとって「自由」なのか?
「他の人の」思い通りに何でもなる世界は、「わたし」にとって「自由」なのか?
人は、一人で自分を救うことは出来ない。わたしが救われるためには、他の人々が必要。他の人々も、救われるためには、「わたしが」必要。
「一人息子の誘惑」は、「自己完結」の誘惑である。これは、パパ・フランシスコが、すでに最初の使徒的勧告『福音の喜び』[EG](2013年)の中で指摘し、その後、ひじょうにしばしば口に出している誘惑だ。
例えば、ペルーでの奉献された人々への話の中で引用した94項。「[霊的世俗性の一つは]自己完結的でプロメテウス的な新ペラギウス主義です」(EG94)。
…つまり、自分自身で自分を救うことが出来る、自分自身で罪をつぐなうことが出来る、とうぬぼれること。これは、「わたしは、イエス・キリストのあがないの業は必要ではない」と言うようなものである…
「この人々は、自分の力だけに信を置き、定められた法規を遵守していること、またカトリックの過去に特有の様式にかたくなに忠実であることで、他者よりも自己の力と感情にのみ信を置いているのです」(EG 94)。
そして、このような人々は「自己陶酔的で権威的なエリート主義を生じさせ」、「福音をのべ伝える代わりに他者を分析し格付けし、恵みへと導くことにではなく、人を管理することに力を費やします」(EG 94)。
パパは明確である。そういう人は、「聖なるもの」の管理者、行使者としては立派かもしれないけれど、自分も傷をもっていて、主によってその傷がいやされた、という感謝から、今度は自分の方から「出て行く」「奉仕者」ではない、と。
パパの言葉の、何と的(まと)を得ていることか!これらの言葉で、心の中に、何かズキッと来るものがなければ、わたしは偽り者だろう。ここまで極端でないにしても、多かれ少なかれ、他者を「管理したい」、「わたしの思い通りに動かしたい」という誘惑は、つねにあるだろう。わたしの中にも、ある。
これが、わたしを閉鎖的にし、神の創造的な恵みへの扉を閉ざしてしまう。
だから、「警戒しなさい」とパパは言う。「このようなキリスト教のゆがめられた形態が、福音の真の活力を生み出すとは想像もできません」と言いながら(EG 94)。
またパパは、神の民は、奉献された人々が、感謝に満ちた「奉仕者」であるとき、それを見分けることが出来る、とも指摘する。神の忠実な民は、嗅覚をもっていて、聖なるものの管理者と、感謝に満ちた奉仕者を見分けることが出来ます。記憶に満ちた人と、記憶を失った人を見分けることが出来ます。
「神の民は、我慢することを知っていますが、喜びと感謝の油をもって、民に仕え、民を世話する人を見分けます 」(司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、1月20日)。
パパは、さらに言う。民が必要としているのは、「管理人」である司祭、修道者ではなく、「手を汚して」民の傷に触れ、治療してくれる司祭、修道者だ、と。転んだとき、罪を犯した時に、指を指して非難する「管理人」ではなく、手を差し伸べ、共に涙を流し、傍らで歩いてくれる司祭、修道者だ、と。
「神の民は、優越的指導者を、待っているのではありません。必要ともしていません。神の民は、いつくしみを知っている、手を差し伸べることを知っている、転んだ人の前で立ち止まることを知っている、牧者、奉献生活者を待っています。イエスのように、この、霊魂を毒する悲嘆を 咀嚼する 悪循環から抜け出すのを助ける牧者、奉献生活者を待っています」(司祭、修道者、神学生との集い=チリ、2018年1月16日)。
「一人息子の誘惑」は、自分の世界しか知らず、自分の世界から出ないので、(時に悪気はなくても)周りの人が何を望み、何に苦しみ、何に傷ついているのかに気づかなくさせる誘惑だろう。たとえ、「奉仕活動」をしているとしても、いつでも「わたしのやり方」「わたしのリズム」に固執する誘惑だろう。
「一人息子の誘惑」から自由になるためには、解放されるためには、わたしが「他者」を必要としている、「他者」はわたしにとってかけがえがない、ということをとことん経験しなければならない。そのためには、文書を読むだけ、「祈るだけ」では十分ではない。「出て行って」(たとえ、修道院の中から出て行けないとしても、自分から出て行く手段はたくさんある)、他の人々に「出会う」ことが必要だ。
出会う中で、共に生活する中で、人は少しずつ学んでいくのだろう。
他者に会って、いきなりその人の傷に触れてはいけない。まず長い時間をかけて互いに信頼し合うことを学び、互いに正直に、率直になることを学ばなければならない。… そして、何よりもまず、「わたしの傷」に気づき、認めるところから出発することを。
わたしは「傷無し」で、かわいそうな他者の傷を癒してあげる、というスタンスでは、まだまだ「一人息子」である。それは、自信満々のペトロの状態(cf.司祭、修道者、神学生との集い=チリ、2018年1月16日)。それは、「わたしは救われる必要がない」という自己完結的うぬぼれ。
わたしは傷を負っている者、わたしは罪深い者、と悟る時、わたしは本当に「自由に」なる。
「傷をもっているという自覚は、わたしたちを自由にします(解放します)。そうです、わたしたちを、自己言及(自己参照)的に
autoreferenzialiなることから、自分が優れた者であると思うことから、自由にします」(司祭、修道者、神学生との集い=チリ、2018年
1月16日)。
「わたしたちは、他の人々よりも優れているから、ここにいるのではありません。わたしたちは、高い所から、『死すべき人間』に会うために降りてくるような、優位にいる者ではありません。むしろ、わたしたちは、ゆるされた者であることの意識をもって、招かれています。そして、これは、わたしたちの喜びの源です。傷つき、死に、復活したイエスのスタイルにおいて、わたしたちは奉献生活者、司牧者なのです。奉献(聖別)された人々 … は、自分自身の傷の中で、 復活 のしるしに出会った人、世の傷の中に、 復活 の力を見ることが出来る人、イエスのように、兄弟たちのところに、叱責や非難をもって会いに行かない人です」(司祭、修道者、神学生との集い=チリ、2018年1月16日)。
パパの挙げる「こういう人になってはいけない」というサンプルを聞いて、すぐ、「あっ、これ、あの人のことだ」とか、「あのシスターは、まさにそうだようね~」と、考えているうちは、まだ、わたしは、わたしの「傷」に気づいていないのだろう。
「わたしは、『優位に』『長上職に』立ったことがないから、『上から目線』の被害者だ!」と思っている間は、まだ、わたしは、わたしの心の「内奥」にまで入っていないのだろう。
わたしの心の「内奥」に入るためには、わたしの救いのために死んで復活したイエス・キリストの霊に心を開かなければならない。まだ、「わたしが」「わたしが」と思っている間は、知らないうちに、わたしは、キリストの霊に心を閉ざしている。
「長上職」に立ったことがないから、「上から目線」の被害者だ、と思っている、その心の状態は、もし、わたしが「長上職」に立ったら、「上から目線」になることを暗示している。というより、優位な立場にいなくても、日々の生活の中で、ことごとく「上から目線」で
生きていることの、しるしでもあるだろう。
自分自身が「メシア・救い主」であるかのように勘違いすることの誘惑に対する「戦い方」の一つとして、パパは、「笑うこと」、特に、「自分自身を笑うことが出来ること」を挙げている。喜びに満ちた意識(自覚)。自分自身について笑うのを学ぶことは、わたしたちに、主
の前に立つ、霊的能力を与えます-自分の限界、誤り、罪をもって、しかしまた、自身の成功、そして主がわたしたちの傍らにいることを知っている喜びとともに( 司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、1月20日)。
そして、効果的な「霊的テスト」として、「わたしたち自身を笑う能力があるかと自問するテスト」を示す。「他の人々のことを笑うのは簡単」だけれど、自分自身の失敗や影の部分までの笑うことが出来るのは、そう簡単ではない。だから、「学ぶ」。笑ってください。共同体の中で笑っていください。共同体を笑うのでも、他の人々を笑うのでもなく!「あまりに偉すぎて、生活の中でどうやって微笑むのか忘れてしまった人々にならないように 」(司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、1月20日)。
パパ・フランシスコの言葉に触れれば触れるほど、奉献された者であるということ、奉献された者として生きるということは、何と大きな恵み、喜び、感謝であり、同時に、大きな責任であるかを知らされる。
パパは、ペルーで、奉献された人々の「本物ぐあい」のバロメーターとして、「三つの要素」を挙げている。もし、ある修道者、司祭、奉献生活者、神学生が、「記憶、喜び、感謝にあふれた人」であれば、それは「本物だ」と。この三つは、「偽りの(仮装の)」召命を見破る武器である、とも(司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、1月20日)。
ここまで「はっきり」言われたら、もう逃げ場はない。「喜ぶことなんて出来ない、だって…」「感謝することなんて無理、だって…」と言い訳することは、出来ない。
喜び、感謝がないなら、それは、根源的要素が欠けている、ということだろう。奉献された人々にとっての、根源的要素は、ただ一つ。イエス・キリストとの出会い。そしてそれは、祈りにおける出会いだけでなく、自分から「出て行って」、自分を煩わせる人と出会い、その人の中に、イエスの傷を見、また、イエスの傷の中に、その人の傷を見ること…。自分の思い通りにならない出来事、自分を邪魔する人の中に、イエスと出会って行くこと…。イエスのように、かがみこみ、へりくだって、時に中傷されながらも、人々の中にある傷を、唯一、それを癒すことが出来るイエスにもっていくこと…。
だから、「記憶」。だから、民の記憶、わたしの歴史の記憶。パパは、洗礼者ヨハネの態度に留まっている。
ヨハネは、自分が「メシア・救い主」ではないことを、自覚していた。自分の使命は、メシアのために道を準備することであることを知っていた。自分の民の記憶をもっていたから。ヨハネは、自分の弟子たちに、イエスを指し示し、彼らが自分のもとを去り、イエスについて行くよう促す。民の記憶をもっていたから。
さらには、「自分は衰え、あの方[イエス]は栄えなければならない」と明言する。これは、出来そうで、出来ない。分かっていても、なかなか出来ることではない。ヨハネは、どんなに有名になっても、どんなに多くの人々が自分のもとにやってきても、自分自身の意識を失わなかった。
「ヨハネもまた、彼よりも偉大な人を待っていました。ヨハネは、自分はメシアではなく、単にメシアを告げる者であることを明確に知っていました。ヨハネは、約束の記憶と、自分の歴史の記憶に満ちた人でした。彼は有名でした、偉大な名声をもっていました、すべての人々が、彼から洗礼を受けるために来ました、すべての人々が、尊敬をもって彼の言葉を聞きました。人々は、ヨハネがメシアであると信じていました。しかしヨハネは、自分の歴史の記憶に豊かであり、うぬぼれ(虚栄心)のお世辞にだまされるに任せませんでした」( 司祭、修道者、神学生との集い=ペルー、1月20日)
パパは、使徒的勧告『福音の喜び』の中で、わたしたちの救いの決定的な時が、ひじょうに貧しい環境の中で始まったことを強調している。
「神のみ心には貧しい人々のための優先席があります。神ご自身が『貧しくなられた』からです。神のあがないへとわたしたちが至る道のりのあらゆる場所において、貧しい人々がその道しるべとなります。わたしたちの救いは、大帝国の外れの辺鄙な小村に住む身分の低い少女から発せられた『はい』によってもたらされました…」(EG 197)。
わたしたちは、そこで、まさに、そのもっとも貧しい場所で、イエスと出会うのだろう。イエスと出会う、特権的場所としての「貧しさ」。それは、物質的な貧しさばかりではない。自分の心の内奥の「傷」を認め、その傷が、イエスの傷によって癒され、復活させられた
ことを知る。記憶と、感謝と、喜びの中で。それこそ、まさに、わたしたちを、イエスの「生き生きとした証し人」としていくのだろう。毎日、毎日、少しずつ。
パパは、ペルーの観想修道会のシスターたちとの集いの中で、「みなが一つになるように」という イエスのみ心と共調して、兄弟的生活(兄弟姉妹としての共同生活)に身を入れてください、と勧めている。
「兄弟的生活に身を入れてください。不和と分裂のただ中で、一つ一つの修道院が光を放つことが出来る灯台であるように。それが可能であると預言するのを、助けてください。誰でも、あなたがたに近づく人が、兄弟的愛の『幸い を前もって味わうことが出来るように。兄弟的愛は、まさに、奉献生活固有のもので、今日の世の中で、そしてわたしたちの共同体の中で、ひじょうに必要です」( 観想修道会の修道女との集い=ペルー、2018年1月21日)。
今日もまた、共同体の「困ったちゃん」シスターのことで、あれこれと「対策」が立てられる…。
もしかしたら、わたしたちの共同体の一致を妨害しているように「見える」そのシスターこそ、わたしたちに、姉妹として共に生きることの大切さを教えてくれているのかも。わたしが、わたしたちが、共同体の一人のシスターを、「困った人」と排斥してしまわない限り、その人に扉を閉ざしてしまわない限り、今日も、わたしたちは、「キリストのからだ」としての共同生活を成長させていくことが出来るのだろう。
「困った姉妹」にも、「居場所」がある、共同体。空間的な「居場所」、受け入れてもらえる、姉妹たちの心の中の「居場所」…。かえって、「目に見える」 困った姉妹」の方が、分かりやすくていいのかも。
主よ、わたしの中に、心の中にある「傷」に気づかせてください。それを、あなたの「傷」の中で癒してください。わたしの傷を通して、わたしが、人々の傷を思い遣ることを可能にしてください。わたしの心が、決して、誰に対しても閉ざされることがないようにしてください。
主よ、あなたは、中傷、裏切り、孤独の中で、ご自分の傷を通して、わたしたちを救ってくださいました。あなたの傷は、決して、憎しみに変わりませんでした。それどころか、あなたの傷は、自分の罪を悔いた盗賊を救い、弟子たちに平和を与え、疑い深いトマスの心を揺さぶりました。
あなたの傷を通して救われた、最初の方、あなたの母マリアと共に、わたしたちも、人々の傷に寄り添い、人々をあなたのもとに連れていくことが出来ますように。あなただけが、人々の、わたしたちの傷を癒すことが出来るからです。
アーメン!
(岡立子=おか・りつこ=けがれなき聖母の騎士聖フランシスコ修道女会修道女)