森司教のことば ⑪「資本主義経済のシステム」に警鐘を鳴らす教皇

    教皇フランシスコは、現代世界の隅々にまで浸透し、人々の心に深く入り込んで人々の日常をすっかり支配してしまっている経済のありように、厳しい警鐘を鳴らしている。使徒的勧告『福音の喜び』の中で、次のように記している。

  「『汝、殺すなかれ』という戒めが、人の生命の価値を保護するために明確な制限を設けるように、今日においては『排他性と格差のある経済を拒否せよ』と言わざるをえない。この経済は、人を殺します。」(福音の喜び、53、邦訳56ページ、傍線筆者)と。

   使徒的勧告とは、全世界のカトリック信者に向けた教皇の指導書簡である。その中で、教皇は「この経済は、人を殺します」とまで断言してしまっているのである。カトリック教会の責任者としての教皇の言葉には、それなりに重さがある。教皇は、一体、何を根拠にし、どのような視点から、『この経済が、人を殺す』とまで断言しているのだろうか。その真意を慎重に確かめてみる必要がある。

    教皇の言葉とはいえ、「この経済は人を殺す」という教皇の言葉に素直に共感し、そのまま相槌を打つことができる者は、カトリック信者の中にどれほどいるのか、正直なところ、私には疑問である。というのは、大半の人は、現代社会の経済の仕組みにどっぷりと浸り、その恩恵にあずかって生活を楽しんでいるからである。

   たとえば、サラリーマンたち。彼らは、日々黙々と職場に通い、それで給料をもらって家族を支え、幸せな生活を築こうと懸命に生きている。彼らの多くは、経済の仕組みがその内にさまざまな矛盾や欠陥を抱えていることを薄々感じてはいても、教皇が指摘しているように『人を殺す』仕組みにまでなってしまっているとは、夢にも思っていないだろう。

 というのは、資本主義経済が登場してからの歴史を振り返ってみるとき、表面的にはマイナス面よりも、人々の生活を向上させてきた、というプラス面の方が目につくからである。

 しかし、教皇は、資本主義を根底で支える論理の中に、一人ひとりの人間へ敬意とあたたかな眼差しの欠如がもたらした悲惨な現実を直視して、教皇は『この経済は人を殺す』と、警鐘を鳴らしたのではないかと思われる。

 資本主義経済の原動力は、利益を上げることへの飽くなき欲望である。経営者の心の根底には、能力に恵まれてない者、役に立たない者は、相手にしない、無視し、排除してしまう冷酷な論理が生きている、ということである。

 貨幣経済が徹底した社会にあって、職につけなかったり、職を失ったりして収入の道を閉ざされた者にとっては、死活問題になる。食べていけない、生活していけない、人生設計を立てられないことにつながってしまう。

 能力に恵まれている者や富みに恵まれている者が、ますます豊かになり、そうでない者が、ますます底辺に追いやられて、経済格差、教育格差などが拡大していく世界の現実をみて、教皇は、次ようにも語っている。

 「現代ではすべてのことが、強者が弱者を食い尽くすような競争社会と適者生存のもとにあります。この結果として、人口の大部分が、仕事もなく、先に見通しも立たず、出口の見えない状態で排除され、隅に追いやられるのです。そこでは、人間自身もまた使い捨ての出来る商品同様に思われています。(中略)もはや単なる搾取や抑圧の現象ではない、新たなことが起きています。(中略)社会の底辺へ、隅へ、権利の行使できないところに追いやられるのではなく、社会の外に追い出されてしまうのです」。(福音の喜び 53、邦訳56ページ)

 また教皇は、飽くことなき利潤の追求に明け暮れる経営者たちの問題点を、次のように記しているのである、

 『他者の叫びに対して共感出来なくなり、他者の悲劇を前にしてもはや涙を流すこともなく、他者に関心を示すこともなくなってしまってしまいます。 (中略)可能性を奪われたことで先の見えない人々の生活は、ただの風景、自分の心を動かすことのないものとなってしまうのです』(福音の喜び54,邦訳57ページ)

 使徒的書簡『福音の喜び』から伝わってくるのは、教皇の、人間一人ひとりを守ろうとする真摯な心である。教皇は、資本主義経済のシステムに、人間一人ひとりへの敬意とあたたかな心が吹き込まれていくことを求めているように、私には思えるのである。

(2017.5.30記  森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

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2017年5月30日 | カテゴリー :