森司教のことば⑩教会の変化・改革を求めるフランシスコ教皇

教会の敷居は高い!?

   フランシスコ教皇は、心の底から教会の改革、変化を求めている。教会は、人々の慰め、支え、癒やし、希望にならなければならないと願ってのことである。そうならなければ、教会には存在する価値がない、とまで思っているかのようである。

   教会を愛し、教会の究極の使命は、人々と真実に向きあい、寄り添っていくことにある、と確信する教皇にとっては、確かに今日の教会の現状は物足りないに違いない。教会を手厳しく批判するのも、教会が、人々が生きている現実から遊離し、叫びをあげている人々に応えられていないという悲しい現実を、しばしば体験してきたからに違いない。

    教会と聞いて一般の人々がイメージするものは、信者たちが集まって祈りを捧げる聖堂や典礼、それに教皇をピラミッドの頂点とする聖職者たちを中心とした組織、そして崇高な倫理・道徳にそって生きようとする人々の共同体というようなものである。

    しかし、人々の目に映る教会が、教会のすべてではないし、教会の本質でもない。

    歴史を振り返ってみれば、教会には、街中に聖堂を建てることさえ出来なかった時代もあったし、キリスト者と分かるだけで弾圧されてしまう時代もあった。さらにまた、崇高な倫理道徳や教義が確立していない時代もあった。それでも教会は、多くの人々の拠り所になってきていたのである。

    歴史の中で形成されてきた教会の建物や崇高な教義や理念などの表面的な姿と教会の本質とを同一視してしまったり、それにこだわり続けていたりすれば、いつまで経っても、教会の敷居は高いままである。

   本来の教会は、誰もが気安く近付くことができる存在だったはずである。

『エクレジア』として

  「教会」についての思い込みや先入観を払拭し、教会の本来の姿を理解していくためには、「教会」と邦訳されているギリシャ語「エクレジア」と言う言葉に目を向けてみることである。「教会」という訳は、「教会」の中心があたかも「教え」にあるかのような印象を与えてしまうが、「エクレジア」という言葉には、「教え」や仰々しい儀式をほのめかすニュンスは全くない。

    漢字の世界に生きる人々のためにギリシャ語「エクレジア」を最初に「教会」と訳してしまった者は、19世紀に中国に渡った宣教師たちである。日本語訳としては江戸時代の末期、マカオで宣教していたギュラッフ牧師の「寄り合い宿」と言う訳がある。この訳は、「教会」という訳とは違って、温もりを感じさせる。しかし、残念なことにギュラッフ訳聖書は、時代が幕末であったこともあって、日本にはほとんど影響を与えることはなかった。

    明治になってからは、明治学院を創設した米国長老派教会の宣教師だったヘボン氏の「集会」と言う訳がある。その後、明治の半ばに結成された聖書翻訳委員会が「教会」と訳し、それが定着して今日に至っているのである。

   ところが、当時のギリシャの世界では、「エクレジア」は、「誰かの呼びかけやある人の人柄に惹かれて集まった人々のグループ、党派、団体」と言う程度のものだったのである。キリスト信者たちは、それを、キリストに出会い、キリストに惹かれて集まった人々の集まりにあてはめたのである。

   この「エクレジア」と言う言葉は、使徒たちの手紙の中では頻繁に使われているが、しかし、正確な定義は見当たらない。恐らく、それは、定義を必要とするまでもない、誰もが日常的に使っていた言葉だったからに違いないのである。

   しかし、一カ所だけ、「エクレジア」についての定義らしきものを見出すことが出来る。それは、コリントの人々に宛てたパウロの手紙の冒頭である。「コリントにある神の教会へ、すなわち至る所で私たちの主イエスキリストの名を呼び求めている人々と共に、キリストによって聖とされた人々へ。」(コリント、一、1章の2、新共同訳)

   パウロは「エクレジア」を「キリストの名を呼び求めるすべての人、キリストによって聖とされた人々」と明言しているのである。したがって「キリストの名を呼び求めている人々」が、どんな人々であったかを見極めていけば、本来の教会の姿が明らかになってくる。

   どんな人々であったのか、パウロが、コリントの信徒に宛てた手紙が参考になる。彼は、初代教会のメンバーについて次のように語っている。

  「兄弟たち、あなた方が召されたときのことを思い起こしてみなさい。人間的に見て、知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や家柄の良い者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵のある者に恥をかかせるために、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするために、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。」(コリント一、1の26〜28)

    つまり、キリストに魅せられ、キリストによって人生を変えられた人々の大半は、経済的にも貧しく、社会的な地位も低く、ほとんどの人が文字さえ読めない人々だったと言うことである。そうした人々が集まって生まれてきた共同体、それが『エクレジア』だったと言うことである。

   それは、まさに、過酷な現実の中でもがき苦しむ人々を、理屈なしに、無条件に、あたたかく受け止め包み込む共同体である。教皇が改革を呼びかけて目指す教会は、そんな共同体なのである。

(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)

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2017年4月26日 | カテゴリー :