教皇フランシスコがもがき苦しむ人々にあたたかな関心を積極的に寄せていることは、特別聖年にあたって公布された勅書からもはっきりと伝わってくる。
教会の現状に満足していない教皇は、教会の変革を求め、教会そのものが厳しい人生に喘いでいる人々の希望になっていくよう、すべてのカトリック信者に意識改革を求めているのである。
教皇が『憐れみの特別聖年』を設定したのも、そのためだったのである。すべての信者が改めて神の憐れみについての理解を深めて、その組織・構造からはじまって教義に至るまでの教会の営みのすべてが、人々の叫びに耳を傾け、人々をあたたかく包み込めるようなものに変わっていくことを、教皇は願ったのである。
教皇である限り、人々の生き様に関心を寄せるのは当然なことなのだが、教会の現状を手厳しく批判し、何よりもまず先に教会そのものの変化・改革を呼び掛けていることに、現教皇の特徴がある。
教皇が教会の現状に満足していないことは、インタビューなどを受けた際の応答やミサの中での説教や公的な文書や使徒的勧告などから明らかである。
その本気度は、使徒的勧告『福音の喜び』からも伝わってくる。丁寧に読んでいくと、私たちは、そこで、実に歯に衣を着せず、容赦なく、教会の現状を批判する教皇の辛辣な言葉に遭遇し、驚くことになる。しかし、そこから、教皇が今の教会をどのように判断しているか、そしてまたどのような教会になって欲しいのか、教皇が目指す教会の姿が明らかになってくる。
「私は、出て行ったことで事故に遭い、傷を負い、汚れた教会の方が好きです。閉じこもり、自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会よりも、好きです。中心であろうと心配ばかりしている教会、強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会は、望みません。(中略)過ちを恐れるのではなく,偽りの安心を与える構造、冷酷な裁判官であることを強いる規則、そして安心出来る習慣に閉じこもったままでいること、それらを恐れ、その恐れに促されて行動したいと思います」(同49,50〜51ページ、傍線筆者)
教皇の言葉を並べて見ると次のようになる
「自分の安全地帯にしがみつく気楽さゆえに病んだ教会」
「中心であろうと心配ばかりしている教会」
「強迫観念や手順に縛られ、閉じたまま死んでしまう教会」
「偽りの安心を与える構造」
「冷酷な裁判官であることを強いる規則」
「安心出来る習慣に閉じこもったままでいる教会」
もし,私のような者が、同じような言葉を口にして、教会を批判しようものなら、司教仲間や司祭たちさらにはまじめな信徒たちから総スカンを食らってしまうことにもなりかねない。それほど教皇の言葉は、手厳しく辛辣である。
教皇の言葉をどう受け取るか、人によってさまざまだろう。教会のありように何の疑いも抱かずに、教会に完全な信頼を寄せている者や善意な心で教会に奉仕している信者たちにとっては、ショックかもしれない。しかし、教会の現状に心を痛めながら、しかし、声をあげることさえできずに堪え続けてきた人たちにとっては、歓迎すべき言葉である。「よくぞ言ってくれた」と喜び躍るに違いない。
教皇が教会の現状をこれほど手厳しく批判するのは、恐らく、教皇自身がそれまでに、神の憐れみにはほど遠い、むしろ神の憐れみに背くような教会の冷たさや固さに幾度となく直面し、心を痛め続けてきていたからに違いないのである。
教皇の教会の現状に対する認識を共有し、教会を教皇が願い求める姿に改革していくこと、それが私たちに課せられた課題でもある。
(森一弘=もり・かずひろ=司教・真生会館理事長)