・新回勅-教皇は、教会の伝統的教え「正戦論」を覆したか(Crux)

A Ukrainian soldier is seen at a position on the front line near the town of Novotoshkivske July 26, 2020. (Credit: Iryna Rybakova/Press Service of Ukrainian Defense Ministry handout via Reuters via CNS.)In new encyclical, Pope questions usefulness of Church’s ‘just war’ doctrine

 (2020.10.6 Crux  MANAGING EDITOR Charles Collins)

 4日発表された教皇フランシスコの新しい回勅 Fratelli Tutti は、「正戦」に関してわずか6段落しか費やしていないが、この主題に関するカトリック教会の教えを覆した可能性がある。

*注*西欧における「正しい戦争」という考え方は、中世において繰り返された戦争・暴力という状況から、「戦ってもよい戦争」と」「戦ってはいけない戦争」を区別し、戦争・暴力の、行使・発生を制限する事を願って生まれ、10世紀後半以降、議論が活発となった。その際、「神の命じた戦争の遂行を義務」とする旧約聖戦観念と、ストア派ローマ法に由来する「穏健で必要最小限度の暴力行使という原則」を結びつけた聖アウグスティヌスの説が大きな影響力をもった。カトリック教会も、これまでその伝統的解釈を受け継ぎ、聖ヨハネ・パウロ二世によって、1992年に第二バチカン公会議30周年を記念して出された現行の「カトリック教会のカテキズム」でも、厳しい条件付きで、「軍事力による正当防衛の行使」という表現で「正しい戦争」を認めている。(「カトリック・あい」)

*「正戦論を完全否定はしていないが…」

 教皇はこの回勅で「戦争のリスクはおそらく、常に想定される利益よりも大きいため、戦争を解決策と考えることはできなくなりました。このことを考慮すると、今日では、『正戦』の可能性について話すために、数世紀前に作成された合理的な基準を思い起こすことは非常に困難です。戦争は二度とあってはなりません!」と述べている。

 そして、「カトリック教会のカテキズム」は、「道徳的正当性の厳格な条件」が満たされている限り、軍事力による正当防衛の可能性について語っている(「カトリック教会のカテキズム」2309項)が、「この潜在的な権利について過度の拡大解釈に陥りやすい」と警告。ここ数十年ですべての戦争は、それを始めた人々によって「正義の戦争」とされたことに注意を向けるように求めている。

 「教皇は新回勅で正戦論を絶対的な仕方で否定はしていないが、前任者たちと同じように、ヨハネ23世教皇以来、教会が進んできた道を継承している」というのが、米ペンシルベニア州のメアリーウッド大学「正義と平和研究プログラム」のディレクター、ダニエル・コサッキ氏の見方だ。

*「新回勅で教皇が言いたいのは『戦争で平和は築けない』だ」

 そして、「非常に分かりやすく言えば、教皇は『戦争によって平和を築くことはできない』と言っているのです… 『カトリック教会の教え』は、これまで何十年もの間、単なる戦争の伝統から離れてきました… しかし、(注:正戦を否定する)メッセージを聞きたくない人はたくさんいます」と語った。それはカトリック教会の「正戦」の伝統が1500年以上前にさかのぼり、伝統的に軍事介入が求められる侵略、人道的災害、その他の国際的危機の現実世界の問題に対処してきたからかも知れない。

*「カトリックの伝統から、『戦争が本質的に悪』と決めつけるのは問題」

 カナダのプリンス・エドワード・アイランド大学の哲学・宗教の准教授、ピーター・コリタンスキーは、「カトリックの伝統において、戦争が『本質的に悪』だと示唆することには、問題がある」と語る。

 「『戦争が本質的に悪だ』と示唆することは、神が、選ばれた人々に『武器を取れ』と命じることで、『本質的に邪悪な行動』をとるように命令したことを意味します。同様に、そのような示唆は、教会の教えに反することになるでしょう。教会の教えは、平和論よりも正戦論を明確に選択しているからです」。

 そして、「これらの理由から、私は、教皇の言葉をこのように解釈するのがいいと思います-『環境を変える』というよりも、『環境を変えるために教会の教えを改めて適用する』ことを意味している、と。それが、『本質的な悪』の解釈を成り立たせます」と述べた。

 さらに、教皇の言葉が暗示しているのは「過去よりも、現代の世界では、戦争を道徳的に正当化するのが難しい」ということであり、そウした考えの背景にあるのは、「近代兵器、特に核兵器と化学兵器の登場です。核兵器によって引き起こされる大量破壊は、戦争を始めるかどうかの判断を、劇的に変えているのです」と指摘した。

 

*「新回勅の”脚注”で、聖アウグスチヌスは隅に押しやられた?」

 だが、メアリーウッド大学のコサッキ氏は、「教皇は、戦争の正当性に関する教会の理解に対して、もっと劇的な変化を示唆しています… 2016年の使徒的勧告「愛の喜び」で扱った離婚し再婚した信徒の聖体拝領の問題と同様に、問題はすべて『脚注』に行きつくのです」と言う。

 新回勅の脚注242には、次のように書かれているー「聖アウグスチヌスは、現代ではもはや掲げることのない『正戦』の概念を構築し、こう述べているー言葉をもって戦争をすることは、剣で人を殺す、そして戦争ではなく、平和によって平和を獲得あるいは維持するよりも、誉れ高いーと」

 「これは私にとってショックでした」とコサッキは語る。「聖アウグスティヌスは通常、(彼の指導者である聖アンブローズと共に)正戦論の『創始者』あるいは『父』とされています。彼の正戦論には3つの重要なポイントがあります。①戦争は不正な侵略者への対応であること②戦争は担当の権威ある者が宣言すること③アウグスチヌスは、戦争中の正しい行動そのものに関心を持っていることーです」と説明。

 さらに、「今、これらの3つのポイントは、教会の正戦論においてアウグスティヌスに続く多くの議論の基礎になっています… ですから、教会は、アウグスティヌスが4世紀に持っていたのと同じ戦争への理解を持ち続けはしなかったが、正戦論を廃止するのではなく、時代時代の戦争への理解をもとに、再構築してきたのです。それを、教皇フランシスコは『もはや支持しない』と言う… この言葉が、この脚注に、教会が正戦論を超えて進む状況を作る道を開かせるのです」と強調した。

 

*「教皇が、アウグスチヌスの『正戦論』を単に破棄した、と見るのは誤り」

 これに対して、コリタンスキー準教授は、「教皇が、アウグスチヌスの『正しい戦争の教え』を『単に破棄した』と見るのは誤りです」と反論する。

 「教皇の言葉は、二通りの解釈ができます。一つは『正戦の概念そのものを、現在の教会が否定している』、もう一つは『正戦の概念そのものは完全に有効だが、現在の世界に適用するのは、従来よりもはるかに難しくなっている、と言っている』です。一つ目の解釈には、この脚注にある教皇が実際に選んだ言葉がもつ通常の意味を反映するという利点がありますが、二つ目の解釈には、教皇が神聖な伝統と矛盾するのを防ぐという利点があります」と説明した。

 準教授はまた、回勅に述べられた正戦論に関する教皇の言葉の「曖昧さ」について不満がある、と言う。その一つは「戦争」の定義だ。教皇は回勅で、国連の役割について前向きに話しているが、国連の平和維持活動、あるいは国連の警察行動も、このカテゴリーに入れるのだろうか。「そのような区別は非常に重要です。現在、国際社会が理解しているように、教皇も『戦争』を非難する際に、国連の平和維持活動の活動を念頭に置いてはいないようですが」としている。

*「人道的軍事介入は支持できるとしても、それを開戦の口実にすることが多い、と教皇は警告」

 米ジョージタウン大学の宗教平和世界問題センターのシニア・フェローでイエズス会士のドリュー・クリスチャンセン神父は、「私が最初に注目したのは、教皇が『原則として、軍事的手段を使う場合でも人道的介入は支持ができるが、それにもかかわらず、そのような言い方は、戦争を始める際の説明として、頻繁に使われている』と言われている箇所です」と述べた。

 コサッキ氏は、国連の介入は「非暴力を基本としており、紛争に関与している当事者にさらなる暴力を行使するよう仕向けない限り、(注:軍事力の行使は)正当化できる、と(注:教皇も判断しておられると解釈)してもいい」と述べた。

 教皇が2014年に韓国を訪問した際、「不正な侵略者を止めることは合法である」と言われたが、同時に、「私は、こういう動詞を強調したいー止めなさい、と。私は、爆弾を落とせ、戦争をせよ、とは言いません、何らかの手段で止めなさい、と言います。どういう手段を使って、止められますか?それは評価される必要があります」とも語られている。

 国連では、このような議論こそ、行われるべきだ、と述べたコサッキ氏は、「それは間違いなく、困難な状況に対処する場合の、教皇が好むやり方です」と指摘した。

*「戦争と死刑をまとめて扱った意味は…残る曖昧さと今後」

 フランシスコの曖昧な言葉は、前々任者の聖ヨハネ・パウロ2世を思い起こさせる。1995年に出した回勅「 Evangelium Vitae(命の福音)」でヨハネ・パウロ二世は、現代社会で死刑の適用を正当化できるケースは「事実上存在しない、とは言わないまでも、非常にまれである」と述べた。 2018年に教皇フランシスコはさらに踏み込んで、死刑について「容認できない」と「教会のカテキズム」を書き換えた。

 コサッキ氏は、教皇フランシスコが死刑と戦争を新回勅で一つにまとめていることに注目し、「この二つがつながっている」と教皇が考えている、と見る。(教皇ヨハネ・パウロ二世の回勅「Evangelium Vitae」も2つの主題をリンクさせていることに注意するのは興味深いことだ。)

 そして、このように語るー「戦争と死刑は、教皇にとって容易に解決できる問題。これら2つを一緒に考え、否定する理由として教皇は三つ挙げています。それは、①いずれも、生命に関わる事態だ②いずれも、意図されたようにすることに失敗する誤った答えだ③いずれも、結果としてもたらされるのは、ますますひどくなる暴力の悪循環だけだ、ということです」。

 だが、コリタンスキー准教授は、死刑と正戦の両方についての教皇フランシスコの扱いには、「明確さを欠いている」という難点がある、と指摘する。

 「『戦争と死刑は本質的に悪』と示唆することで教会のこれまでの教えを真逆にすることは、神学的には支持できないにもかかわらず、通常の常識的な感覚で関係個所を読むことで、(注:この二つを巡る教会の対応についての)歴史的な経緯を知らず、合理的にものを考える人ー人は、まさにそうした結論に導かれるでしょう」。

 そして、「神学的に正確な言葉を望んでいる人々からの問いかけ、特に戦争と死刑が『本質的に悪』であるかどうかについての問いかけを受けて、私たちが『理論的議論に夢中にならないように』と教皇は警告しておられます」と准教授は付け加えた。

 コサッキ氏は、教皇フランシスコがご自分の後継者が「戦争の正当性」について、さらに決定的な判断を下すための土台を準備している、とし、次のように語った。

 「教皇ヨハネ・パウロ二世が1995年に、死刑が正当化されるケースを限定した際になさったように、教皇フランシスコは、正当化された戦争について同様の指摘をされました。しかし、ヨハネ・パウロ二世が、次に来る教皇(フランシスコ)が「死刑を容認できない」と宣言するようにしたように、フランシスコは次に来る教皇が『正当化された戦争について同じ主張をするだろう』と言っているように見える」と彼は言った。

Jack Lyons contributed to this story.

(翻訳「カトリック・あい」南條俊二)

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2020年10月17日